水曜日のボストンでの批評が出ている。同地の音楽ブログのようだが、前回もそのサイトを読んだ。前回は、マーラー作曲七番交響曲ではなく、もう一つのコルンゴールトの交響曲のプログラムだった。つまり今回初めてペトレンコ指揮の真価が問われるところとなった。その通り、ユダヤ系の筆者がその合衆国での音楽の流れの視点から書いていたりした。それに比較すると今回は交響曲における指揮者の構成力と等される見識が試されることになった。それは一夜のプログラミングによって語れれる物とはまた異なる楽曲の創作への深い視点が要求されるものだ。
筆者のゲンツ氏はケルティックと文学をハーヴァードで学んだようであるが、楽曲への個人的な視点は明白である。恐らく録音評などもしているのだろう、楽章ごとの演奏時間や主題のテムポそしてその動きに注目している。炬燵記事の音楽ジャーナリストと言えるかもしれない。
先ずは、ベルリンとは異なってボストンでこの曲が演奏されるのは珍しくて、1959年、2007年の演奏とゲストとしてはマゼール指揮クリーヴランド管弦楽団以来としている。要するにブルックナーはあまり人気がないということだろう。然し今回はネット販売で完売していたので指揮者と楽団、ブルックナーにとっての成功と書いている。
比較としてネーヴェ・ヤルビの採ったテムポで62分の演奏、チェリビダッケの90分そしてその中間にあるベーム、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュらの中間では、アレグロは早過ぎず、二楽章は遅すぎずの70分ほどが適当だという認識から入っている。
そこで、結論からするとペトレンコ指揮では一楽章は若干早くても、二楽章は若干遅くても、フィナーレのコーダはもう少し大きくても良かったのではないかとしている。要するに個人の評価基準は録音比較でしかないかもしれない。然し細かなところでの拘りはあって、20分掛った一楽章でのテムピ運びにおいて、主題でピアノからフォルテシモへの繰り返しで多くの指揮ではそこで吹かすのだが、楽譜にはそうなっていないと、ペトレンコ指揮の正しさを指摘している。二主題でも悲しみはあっても後悔とはならない、三主題の加速は伝統通りとしている。それらを以って、構造的な把握を評価している。これをその指揮技術的なこととはせずに音楽的と考える筆者である。
二楽章は16分のようで、ポリリズムの扱い方が今迄には聴かれたことがないとしていて60メトロノームはアダージョの限界であるが、その「とてもゆっくりに」は、マーラー自身がアダージェットを交響曲五番で使った様に、マーラー自身の指揮に合わせるとそのもの16分になるだろうと算数をしている。つまりカラヤンの22分やチェリビダッケの24分は間違いとなる。
13分の三楽章では電光石火のスケルツォとその後のレントラーのヴァルツァーへの流れなどを、多くの指揮者がテムピを落としてしまって、レントラーが更に遅くなることがなかったと評価している。
ブルックナーの言葉として、最初に「大切なことを話す時には、いつも深く息をつくのだ。」と提示されているので、テムピとその拍の関係には直接言及されていないが、間違いなくそこに気づきがあったのだろう。(続く)
参照:
Petrenko & Berliners Triumph in Bruckner 5, Jeffrey Gantz, The Boston Musical Intelligencer of Nov. 21.2024
暗黒の歴史を払拭へ 2022-11-15 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
筆者のゲンツ氏はケルティックと文学をハーヴァードで学んだようであるが、楽曲への個人的な視点は明白である。恐らく録音評などもしているのだろう、楽章ごとの演奏時間や主題のテムポそしてその動きに注目している。炬燵記事の音楽ジャーナリストと言えるかもしれない。
先ずは、ベルリンとは異なってボストンでこの曲が演奏されるのは珍しくて、1959年、2007年の演奏とゲストとしてはマゼール指揮クリーヴランド管弦楽団以来としている。要するにブルックナーはあまり人気がないということだろう。然し今回はネット販売で完売していたので指揮者と楽団、ブルックナーにとっての成功と書いている。
比較としてネーヴェ・ヤルビの採ったテムポで62分の演奏、チェリビダッケの90分そしてその中間にあるベーム、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュらの中間では、アレグロは早過ぎず、二楽章は遅すぎずの70分ほどが適当だという認識から入っている。
そこで、結論からするとペトレンコ指揮では一楽章は若干早くても、二楽章は若干遅くても、フィナーレのコーダはもう少し大きくても良かったのではないかとしている。要するに個人の評価基準は録音比較でしかないかもしれない。然し細かなところでの拘りはあって、20分掛った一楽章でのテムピ運びにおいて、主題でピアノからフォルテシモへの繰り返しで多くの指揮ではそこで吹かすのだが、楽譜にはそうなっていないと、ペトレンコ指揮の正しさを指摘している。二主題でも悲しみはあっても後悔とはならない、三主題の加速は伝統通りとしている。それらを以って、構造的な把握を評価している。これをその指揮技術的なこととはせずに音楽的と考える筆者である。
二楽章は16分のようで、ポリリズムの扱い方が今迄には聴かれたことがないとしていて60メトロノームはアダージョの限界であるが、その「とてもゆっくりに」は、マーラー自身がアダージェットを交響曲五番で使った様に、マーラー自身の指揮に合わせるとそのもの16分になるだろうと算数をしている。つまりカラヤンの22分やチェリビダッケの24分は間違いとなる。
13分の三楽章では電光石火のスケルツォとその後のレントラーのヴァルツァーへの流れなどを、多くの指揮者がテムピを落としてしまって、レントラーが更に遅くなることがなかったと評価している。
ブルックナーの言葉として、最初に「大切なことを話す時には、いつも深く息をつくのだ。」と提示されているので、テムピとその拍の関係には直接言及されていないが、間違いなくそこに気づきがあったのだろう。(続く)
参照:
Petrenko & Berliners Triumph in Bruckner 5, Jeffrey Gantz, The Boston Musical Intelligencer of Nov. 21.2024
暗黒の歴史を払拭へ 2022-11-15 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評