合衆国公演からワシントンに続きニューヨークでの三晩の公演から最初に買いの批評が出ている。丁度一週間前になるがカーネギーホールから二晩目は夜中に録音したものである。
初日のプログラムの最初のラフマニノフ「死の島」から始まる。三晩の演奏会でポピュラーコンサートではないものが愉しめるとして、キリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーはその力強さと同時に繊細さを兼ね備えていて唯一無二の存在であり、永遠の古典に光を当てるドヴォルジャークとブルックナーのツアーでの七番と五番に言及。そのアンサンブルはあまり真っ当に捉えられていない予期せぬ深み聴かせるとしている。
何時も繰り返している事象ではあるが、このように屡欧州の重要な公演に振れるこの新聞はアメリカで最もよい文化欄を持っているのだろう。「死の島」ではパルジファルと同じく真剣なペトレンコの指揮から重くならない柔軟で趣溢れる音楽となる。船出の近場から崩壊よりも流れが収斂する水煙へとまるで気流が渦を作って各々が散っていくようだとその中間部を表現している。その渦のそれ自体に流動性があるのではなく無為にあるかのようにである。最後にはヴァイオリンのエレジーが、時にはただムード音楽であるかのようなものが、引き剥がされるように醸し出される。
此処での文学的な表現自体にはその文字への言語への共通の感性が必要となるのだが、謂わんとしようとしているのは弦楽陣においても細心のアーティキュレーションとそしてそこにあるべきリズム的な力が与えられて通常ではあり得ない効果を醸し出していたということに他ならない。然し乍らペトレンコ指揮の音楽芸術の聴きどころを文章化しようとした試みである。
コルンゴールトの協奏曲に関してはいつもシュービズ的なものと考えることがあるのだが、日曜日においてのラフマニノフとドヴヴォルジャークに間に挟まれて火曜日にも演奏される、それはペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーによって全く洗練されたものとなったと、当初のハーンに代わって演奏したフランクの抑えた表現は二楽章での感情を書くことはない一方、決してべとべとしたものにならなかったとして、ペトレンコ指揮のそれに合っていたと評価する。
同じような印象は初めて聴いた9月のフランクフルトでも感じていたのでこの筆者の言いたいことはよく分かる。こうしたところがいい書き手いい読み手の通じるところで、所謂玄人は皆よく分かる点でもある。
そして楽員がお互いによく聴き合っていてと、最後のドヴォルジャークの一楽章では暖まった弦がフルートのラインの受け取りと正しく現在のベルリナーフィルハーモニカーが至ろうとしている室内楽団的なそのアンサムブルの在り方であり、音楽的な表現力の緻密さへと通じる観察である。勿論そうした合奏はペトレンコの指揮だけで齎されるものではなく、所謂有機的なアンサムブルの賜物であり、現在の特にスカラ座以降のペトレンコ指揮によって明らかに飛翔させられる音楽の原動力でもあるのだ。(続く)
参照:
The Berlin Philharmonic Is the Best in the Business, Zachary Woolfe, The New York Times of Nov. 20 2024
聴く機会がない交響楽団 2024-10-01 | 音
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
初日のプログラムの最初のラフマニノフ「死の島」から始まる。三晩の演奏会でポピュラーコンサートではないものが愉しめるとして、キリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーはその力強さと同時に繊細さを兼ね備えていて唯一無二の存在であり、永遠の古典に光を当てるドヴォルジャークとブルックナーのツアーでの七番と五番に言及。そのアンサンブルはあまり真っ当に捉えられていない予期せぬ深み聴かせるとしている。
何時も繰り返している事象ではあるが、このように屡欧州の重要な公演に振れるこの新聞はアメリカで最もよい文化欄を持っているのだろう。「死の島」ではパルジファルと同じく真剣なペトレンコの指揮から重くならない柔軟で趣溢れる音楽となる。船出の近場から崩壊よりも流れが収斂する水煙へとまるで気流が渦を作って各々が散っていくようだとその中間部を表現している。その渦のそれ自体に流動性があるのではなく無為にあるかのようにである。最後にはヴァイオリンのエレジーが、時にはただムード音楽であるかのようなものが、引き剥がされるように醸し出される。
此処での文学的な表現自体にはその文字への言語への共通の感性が必要となるのだが、謂わんとしようとしているのは弦楽陣においても細心のアーティキュレーションとそしてそこにあるべきリズム的な力が与えられて通常ではあり得ない効果を醸し出していたということに他ならない。然し乍らペトレンコ指揮の音楽芸術の聴きどころを文章化しようとした試みである。
コルンゴールトの協奏曲に関してはいつもシュービズ的なものと考えることがあるのだが、日曜日においてのラフマニノフとドヴヴォルジャークに間に挟まれて火曜日にも演奏される、それはペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーによって全く洗練されたものとなったと、当初のハーンに代わって演奏したフランクの抑えた表現は二楽章での感情を書くことはない一方、決してべとべとしたものにならなかったとして、ペトレンコ指揮のそれに合っていたと評価する。
同じような印象は初めて聴いた9月のフランクフルトでも感じていたのでこの筆者の言いたいことはよく分かる。こうしたところがいい書き手いい読み手の通じるところで、所謂玄人は皆よく分かる点でもある。
そして楽員がお互いによく聴き合っていてと、最後のドヴォルジャークの一楽章では暖まった弦がフルートのラインの受け取りと正しく現在のベルリナーフィルハーモニカーが至ろうとしている室内楽団的なそのアンサムブルの在り方であり、音楽的な表現力の緻密さへと通じる観察である。勿論そうした合奏はペトレンコの指揮だけで齎されるものではなく、所謂有機的なアンサムブルの賜物であり、現在の特にスカラ座以降のペトレンコ指揮によって明らかに飛翔させられる音楽の原動力でもあるのだ。(続く)
参照:
The Berlin Philharmonic Is the Best in the Business, Zachary Woolfe, The New York Times of Nov. 20 2024
聴く機会がない交響楽団 2024-10-01 | 音
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評