Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

祝祭的でないブルックナー

2024-11-24 | マスメディア批評
承前)フィルハーモニカ―は響きは筋肉質だが二楽章のラプソディでの温かみ、スケルツォのエレガントなダンスの脚、田舎舞踊の田舎のすごやかさを表現に余すことはない豪放なフィナーレにおいてはアップビートの第二主題が無表情なやさしさにあったとしている。ベルリンの定期からの放送で流し聴いただけなのでその旨はよく分からない。然し少なくとも音楽的な表現力が楽団の音響や指揮者の個性によって潰されているということでは無しに、その反対に豊かであることの裏返しの表現力なのだろう。

どうも言及の箇所は例のリズム的な精査に根源があるようで、ブルックナーの演奏においてもとても重要な時間的な表現となる。それでも翌日のブルックナーに関しては我々がマイクを通して聴いていた様にそうした間が十分に発揮されていたかどうかには疑問がある。

その証拠にここでもティーレマンの言葉を使って、ただ一つこの交響曲における殆ど幸福感がと引用して、ペトレンコ指揮においては愉しくとあって、これ程の意祝祭的でないブルックナーはあまり聴いたことがないとしている。

これは、ブルックナーにおける抹香臭さを避けることを嘗てのブルックナー指揮者ヴァントの様にモットーとしているペトレンコからすればパトスへ奔る表現は採らない。すれば所謂宗教的な「祝祭的」とならないのは当然であろう。

田園的な遊びに満ちていて、ペトレンコは腕を脇につけて穏やかに揺らし、二楽章のレントラーへとチャーミングに殆ど呟かせる。そして四楽章のおどけたクラリネットによって巨大なフーガが剛直ではない悦びを誘う。

ペトレンコは巨大なブルックナーとはしなかった。そこに急峻なクライマックスがあろうとも、大聖堂ではなくてチャペルでのブルックナーとして響くというのだ。ダンシーで驚くべき豊かな音色で、最後のフルートへの収斂に運ぶとしている。

放送でも感じたが、やはりアルテオパーでの名演の様に豊かな宇宙観へと想像を齎すことはあまりなかったようである。サウンドチェックでその音価などには配慮があったようだが、やはりカーネギーホールの音響は中域の張りが大きくて後期浪漫派の音楽にはあまり向かないような感じがする。

その一方一楽章における豊かな和声と軽やかな流れ、二桁三桁の二楽章の間の中間楽章の単調さは全く以ってサブコンシャス的でと記している。正しく私が非ユークリッド空間の認識としたものである。もうこれだけでブルックナーの真意が漸く後世に初めて伝わったのではないか!

それに起動する管弦楽は、吠え狂いから輝くコラール、そし渦巻、沈黙そして精密、たおやかさへと対応するとして称賛している。

既にボストンでのブルックナーを終えてミシガンに行き、火曜日のシカゴでブルックナーで締める。さてどのような批評が続くだろうか。



参照:
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
音楽芸術の時空の流れ 2024-11-20 | 音
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