Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

歴史的交響楽ホールの実践

2024-11-29 | 
承前)ボストンの批評ではテムポ以外にも拘りがある。それは楽器配置で、左右に広がった第一と第二ヴァイオリンである。それは前回の同地でのコルンゴールトの交響曲でも同じだったが、今回はブルックナーの時代の配置であって好ましいと書かれている。

ここでも繰り返して言及しているが、その配置であるとワインワード型のホールであるベルリンの本拠地では音抜けしてしまう。下手奥のコントラバスのチェロを後ろから支えるその低音の跳ね返りの十分ではないからだ。これは本年一月にも通常配置では確認したが直接の音が前に出るだけになる。すると中域のヴィオラと含めての和音の底となっていくだけである。

然し世界的にも有名なボストンのシンフォニーホールとなると、シューボックス型で舞台が枠に囲まれている。写真や録音で知る限りよく鳴るホールで、現地で体験した人などはそのものボーズのスピ―カーのようだという。つまり、音に包まれる感じが強いのだろう。その前に演奏したカーネギーホールでも中域が張った感じがするが、ここはより箱が鳴る感じらしい。

すると左右に大きく広がる音像は望まれるべきものであり、掛け合い、そして音が上手に重なるので、筆者が好ましいと書くように、そのい会場のアコースティックと共ブルックナ―の描いた音像となる。

フィナーレのおどけたクラリネットで、第九交響曲様に前の楽章を振り返ったあとで、フガート主題が始まるのだがそれをして、トリオにおける「子供の情景」のようだとしてそのコミカルさを指摘。三主題から一楽章の主主題が重ねられて、対位法の花火のコーダへと。

ここでペトレンコ指揮は早く祝祭的だ、変ニの第二の主題は弾み、その中間のそこかゆっくり目には殆ど目をくれない。ヘ短調の第三主題は荒れ狂う。そのしゃっきり感はフーガの様相を性格づけていて、更に息づくことで、コラールでの休止をよりドラマティックにしていたとする。主題が戻ってくることで、二つのフーガ主題を聴き分けられるようにして、展開部の終わりでは棘の効いたリズム十分に流れを堰止め無い。コーダでの次から次への投下で変ロ長調の主題へと終末的な祝祭に至る。

そこでの管弦楽団の演奏を称して偉大という以外に付け加えることはないとしている。それでも最後のコーダがもう一つ大きな音でもよいのではないかとしている。ペトレンコ指揮のブルックナー解釈は、最初に書いていた様に月並みな誰でもやるような演奏実践の常套手段には組せずに、ブルックナーの本質であったと結論付ける。それはそのテムポ運びであり、重量感であり、対位法的な扱いであり、構造的な描き方であり、その個性であるとしている。

そしてペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカは、水曜日のブルックナー五番で歴史上最も優れた楽団がやるべきことを正しくやっているとしか言わざるを得ないと結んでいる。



参照:
暗黒の歴史を払拭へ 2022-11-15 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
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