■ 椎名林檎が「椎名林檎」に戻る!
昨日、ドラマ「スマイル」が最終回を迎えました。
娘は松潤目当て、私はガッキー目当てで毎週楽しみにしていました。
中井貴一が本当に上手くて、
いしだあゆみの、あのどうしようもない舌足らずな台詞回しも
それはそれで良い味を出してました。
挿入歌に使われていたのが、
椎名林檎の「ありあまる富」。
キター!!って感じ。
待ってました、6年間、椎名林檎が「椎名林檎」に戻るのを。
初期にシングルのカップリングにあるようなシンプルな曲。
時折聞こえる歪んだギター。
憂いを帯びたメロディー。
「すべりたい」や「17」「青空」など、デビュー前の習作のような曲を
こよなく愛する私としては、
過剰な演出の中に沈溺する「椎名林檎」よりは、
カーペンターズやジャニス・イアンをストレートに信望する
椎名林檎を聞きたかった。
あるいは、「時が暴走する」の様な、ピアノ一本のアレンジを聞きたかった。
「ありあまる富」は、まだ装飾過剰ですが、
売り物ですから、しかたありません。
ここから先は、アルバムでやってもらえれば。
楽しみです。6年振りのニューアルバム。
■ 期待を裏切り続ける林檎 ■
昨日、買いました。ニューアルバムの「三文ゴシップ」。
シンプルなジャケットに期待が膨らみます。
1曲目の「流行」からいきなりヒップホップ????
エーー、マジーー!!
やられました。
てっきりシンプルなアルバムと思いきや、
思い切り、装飾満載の歌絵巻です。
「ありあまる富」は収録すらされていません・・・・。
やられた・・・。
■ 彷徨い続ける林檎 ■
椎名林檎の最高傑作は?と聞かれたら、
私は「絶頂集」の中の「メロウ」を挙げます。
ニルバーナに傾倒していた頃のグランジロックの傑作です。
痛い程に切ない歌詞と、エッジの立った演奏は
歌謡曲の範疇をはるかに凌駕しています。
聞いていて、あまりに「痛い」曲で、
岩井俊二監督の「リリー・シュシュのすべて」を思い出してしまいます。
しかし、3枚組シングルの「絶頂集」とそれに続く「真夜中は純情」は
アルバムに収録されませんでした。
3枚目のアルバム「加爾基 精液 栗ノ花」は非常に内省的な内容でした。
(しかし、レコード屋で口に出来ないタイトルですよね)
凝ってはいるけれど、ハジケナイ感じでした。
その後は「歌い手冥利」や「東京事変」や斉藤ネコとのコラボなど、
企画モノがメインで、なかなか「椎名林檎」にはお目に掛かれませんでした。
この頃が、椎名林檎の混迷期でした。
その間に、椎名林檎のニセモノが沢山現れます。
本人も東芝EMIに激怒したとウワサされる、「矢井田瞳」。
昭和歌謡路線をお洒落にシフトさせた、「エゴラッピン」。
林檎節を歌謡曲にした「YUI」。
本人が「東京事変」で遊んでいる間に、
椎名林檎の開拓した世界の住人がどんどん増えていきました。
■ 日本語の再認識と、言葉の限界 ■
椎名林檎が「無罪モラトリアム」でデビューした当時、
J-popsでは、日本語が瀕死の状態でした。
サザンやミスチルが開拓した、日本語を英語の様に響かせる手法の氾濫や、
金太郎アメの様な、代わり映えのしない甘ったるい歌詞のオンパレード。
ところが「椎名林檎」は日本語で日本の社会をメッタ切りにして現れました。
世間は「新宿系」としょうして、オジサン達を巻き込んだ盛り上がりを見せます。
あの当時の椎名林檎は本当にカッコよかった。
キルビルの黄色いジャージのネーちゃんよりも、カッコ良かった。
ただ、「無罪モラトリアム」ではストレートにヒットしていた日本語が、
「勝訴ストリップ」では、早くもキレを失って行きます。
不意をついた言葉で、殴っておいて、やおら踵を返して去っていった「無罪」に対し、
「勝訴」はこちらの反応を、扉の影から伺ってしまう未練を感じてしまう。
ここら辺が、やはり「言葉」の限界だったのかもしれません。
絶頂集では、3つの方向を模索しています。
「虐待グリコゲン」の従来路線の推進。
「天才プレパラート」のニルバーナやレディオヘッド路線。
「発育ステータス」のアングラ仲良し路線。
既に、この3枚組シングルでは、言葉は意味を失いつつつあります。
時折、聞き取れるエッジのある単語が、音楽をドライブさせていきますが、
全体としての物語性は薄れていきます。
「絶頂集」はまさに、第一期「椎名林檎」の絶頂であり、崩壊の始まりでした。
■ 劇場路線の模索 ■
私は椎名林檎は非常に繊細で、コワレモノの様な人だと勝手に妄想しています。
ジャニス・イアンの少女の戸惑いを理解出来る繊細さを持った人だと・・。
但し、彼女はそれをストレートに見せる事は嫌うようです。
演劇的な仮面に隠して、過剰な演出で覆い隠してしまいます。
劇場性気質が元々あるのか、元来機用な性格なのか、
コテコテの演出を本人も楽しんでいるようです。
しかし、交友関係や共演者を見ると、
アレっと思う事も多いです。
「ともさかりえ」が親友である事は有名ですが、
彼女のアルバムに椎名林檎が提供している曲は、
正に、椎名林檎の初期シングルのカップリング曲に近い肌合いです。
発育ステータスで競演した田淵ひさ子(ナンバーガール)も派手な子ではありません。
さらに、歌い手冥利で「木綿のハンカチーフ」をデュエットしていた、
「松崎ナオ」なんて、半分壊れかかった不思議チャンです。
二人の共通点なんて、壊れそうなキワドサしかありません。
(彼女は当時EPIC-SONYでしたから、この競演は不思議でした)
こんな、ちょっと危なげな繊細さをチラチラと垣間見せながらも、
「椎名林檎」はコテコテに自分を装飾してゆきます。
■ アーティストとPopsの狭間で ■
3rdアルバムの「加爾基 精液 栗ノ花」は、
これまでの他人のプロデュースを離れ、セルフプロデュースです。
これまで、他人の世界でヒロインを奔放に演じてきた彼女は、
自分の演出に没頭します。
細かい点はで非常に面白いアルバムではありますが、
自分の演出する架空の自分を演じるような歯がゆさが全編を覆っています。
これをして椎名林檎の最高傑作と言う人も多いようですが、
私には、何とも煮え切らないアルバムに思えて仕方がありません。
アーティストを標榜するには、やはりオリジナリティーが不足気味です。
アートは壊れた自分をさらけ出す人間の所業で、
自分を隠すタイプの人間は、アートには辿り着けません。
本人が、このアルバムをどう評価するかは分かりませんが、
その後、セルフプロデュースを行わず、
むしろ、他人に自分を演出させている事からも、
ある限界を意識したのかもしれません。
■ 素晴らしきクルト・ワイルの世界 三文ゴシップ ■
さて、6年のインターバルを経て届けられたニューアルバムは、
「茎」と同じ井上雨迩(ウニ)とのコラボレート。
一曲目の「流行」からラップが導入されますが、
とにかくアレンジが見事。
所々ストリングスを配し、ヒップホップとROCKが現れては消えて行きます。
まるで、目くるめくレビューを見ているような幻惑感。
題名の「三文・・」からも分かる様に、これはクルトワイルの世界です。
ブレヒトと「三文オペラ」を共作したクルトワイルは
アメリカに渡り、アメリカのミュージカルの礎を築きます。
少し下世話なその音楽は、不当に低い評価しか与えられませんでしたが、
80年代にクルトワイルの再評価が世界的に成されます。
ハル・ウィナーの「星空に迷い込んだ男--クルト・ワイルの世界」は
ロック、Popsの様々なミュージシャンを起用して最高のアルバムに仕上がっています。
「三文ゴシップ」は井上雨迩版のクルト・ワイルの世界。
それも、ヒップポップなど現代の表現を見事なまでにミックスして、
クールでシャープな音を手に入れています。
椎名林檎は既に素材でしかなく、
彼女の割り切りもスゴイ。
既に、歌詞はスキャット程度の役目に成り果てて、
歌詞に何かメッセージを託すなんて事は放棄しています。
ただ、時折耳に入る日本語が、刺激的。
カエターノ・ベローゾの曲の中で、突然日本語が飛び出してくる感じに近い。
だいたい、ノリノリのファンクビートにはオバカな歌詞程良く似合う。
P-ファンクの歌詞なんて、読むだけバカバカしいけど、あれはあれでクール。
労働者なんて、同じノリを感じてしまいます。
一昔前、「洋楽に比べて日本のロックやポップスは」と言われましたが、
「三文ゴシップ」は、既に世界レベルです。
今まで、歌謡曲から足を洗えなかった椎名林檎が、
完全に日本を振り切って、歌謡曲のルーツであるワイルの世界や
ラテンポップスにアプローチしています。
いままで時代のあだ花の様であった「椎名林檎劇場」が、
おてんとう様の下で堂々と咲き誇った、
そんな「三文ゴシップ」は名盤です。
(但し、最後を「丸の内サディスティック」で閉めるなぞ、
ファンの気持も良く分かってらして感謝。)