■ 情報化の果ての消毒された社会 ■
2030年代の日本。
高度に発達した情報システムは社会の在り方自体を変革し、人々のコミニュケーションはネット主体に行われます。そして、リアルコミニュケーションに対して極度に神経質な社会が生み出されています。
子供達は在宅で学習プログラムをこなし、学校はリアルコミニケーションの研修に定期的に通う場所に変化しました。
ネットの社会では曖昧な言葉遣いは混乱を招くので、コミニケーションは端的で一義的な言葉が好まれ、子供達はリアルな会話での多義性に困惑を覚えるようになっています。
「表面的な言動の裏にある本当の気持ち」に触れたいのに怖い。
お互いの目を見つめる事で、人の目が生き物の目だと気付き怖れる衝動。
子供達は友達という概念すら理解出来ませんが、一方でリアルコンタクトで彼らの中に生まれる不思議な感情に、根源的に引かれるものを感じます。
21世紀の初めに生まれた中年達も、この時代の若者の目を通してみれば、「信じがたい無神経」な存在です。
そんなリアルをアルコール消毒した様な社会で、バラバラ連続殺人事件が発生します。
被害者は14歳の少女達。
■ 友情を理解出来ない子供達の「友情パワー」が炸裂する ■
牧野 葉月(牧野 はづき)は県会議員の娘。
内気な普通の少女の彼女は、コミニケーション研修で同じクラスの神埜 歩未(こうの あゆみ)が何となく気になる。さりとて、積極的に会話を試みるでも無く、たまに、高台から街を眺めるだけ。一緒にというよりは、偶々同じ時間に同じ場所から眺めているだけの様な関係。
歩未はどことなく不思議な存在。自身の匂いを嗅いで「動物の匂いがする」と呟く。そして空を見上げ、まもなく雨が降ると呟く。・・・どことなく獣の雰囲気を宿した少女。
そんな二人の元を、同じクラスの都築 美緒(つづき みお)が訪れ、慌ただしく去って行く。彼女は14歳にして大学のカリキュラムに進学している天才少女であらりながらも、バカである。美緒に言わせれば、「自分達は子供なのだ」と言う。子供だからバカで良いのだと。
3人の少女達は友達では無い。ただ、たまに一緒に居る存在。彼女達には、友達が何なのか理解出来ない。モニターの外の社会は・・・リアルな社会は、彼女達の理解の外にある。
ところが、そんな彼女達の日常に、突如、「連続バラバラ殺人事件」が乱入してくる。クラスメイトの矢部 祐子(やべ ゆうこ)を暴漢から救った事がきっかけで、彼女達は事件に巻き込まれてゆく。友達とは何か理解出来ない子供達は、しかし矢部を救う為に結束し、そして冒険はいつしか彼女達を危険な事件の渦中にいざなってゆく。
狼の様な少女の歩未。
天才科学バカ少女の美緒。
普通の少女の葉月。
美緒の幼友達の無登録住民の中国拳法少女の麗猫(レイミャオ)。
占いゴスロリ少女の作倉 雛子(さくら ひなこ)
関西弁の転校生来生 律子(きすぎ りつこ)。
彼女達を突き動かすのは、彼女達が理解する事の出来ない「友情のパワー」。
「何だか分からないけど、仲間を救わなければいけない気がする」
そんな少女達の本能が、巨大な破壊となって、大人達の欺瞞を粉砕してゆく。
■ 京極夏彦のガールズ・トーク・小説 ■
京極夏彦と言えば「妖怪小説」。
京極堂シリーズを初め、数々の小説を発表し、押しも押されぬ人気作家です。
その京極夏彦が2001年に発表したのが「ルー=ガルー 忌避すべき狼」という小説です。ネットで読者からアイデアを募り、彼がまとめた小説は、近未来の情報社会に生きる少女達のSF冒険小説でした。
出来あがった小説は、硬質な文章で、緻密に未来お情報化社会のルールや習慣が書かれており、個人のプライバシーや子供の尊厳を最大限に尊重した、ナイーブな社会が描かれています。
ネット中心社会によって生み出された3つの世代、(第一世代の中年=無神経、第二世代の若者=神経質 第三世代の子供=コミニケーション出来ない)の葛藤を交えながら、物語は「連続殺人事件」の謎を解く大人の「警察小説」と、事件に巻き込まれた子供達の「冒険小説」の両方の視点で展開して行きます。
この小説はほとんど「会話」によって進行します。
大人達の会話は実に情けない。プライバシーや法的な制約や、発言によって生じる責任に縛られた、彼らの会話は全く生産的ではありません。現実は会話によって変質し、歪められ、そして事件の謎はますます深まって行きます。
一方、子供達のガールズ・トークは絶妙な面白さです。
子供達はコミニケーション能力を決定的に欠いてるので、会話の殆どは「すれ違い」を生じます。しかし彼女達は本能的に相手の事を理解し、適格な判断を下して行きます。コミニケーションする事が不可能と思っているからこそ、表層では無く、相手の心の深層を動物的に嗅ぎわける能力を発達させたのでしょうか?
■ 「ライトノベルとは違うのだよ」 ■
「ルー=ガルー」は早すぎた小説です。
10年前は現在程、ネットやメールは発達していませんでしたから、この小説で書かれた内容の1/10も伝わらなかったと思います。特に、精密に社会のルールの変化を説明する事に多くのページが割かれている為、小説としてのスピード感に乏しく、社会学のテキストを読まされている様な印象を受けました。
同時期に発売された石田衣良の「秋葉原@ディープ」の方が、従来のサイバーパンクの延長にあった為、世間的には理解し易かったのでは無いかと思います。
ところが10年経った今、読み返してみると、京極夏彦の描いた社会とその問題点が、まさに現実の物となっている事に驚きます。一方で、サイバーパンクはアニメやハリウッド映画の中で乱用され、急速に陳腐化してしまいました。
SF小説を「Speculative Fiction(思弁的小説)」と定義するならば、「ルー・ガルー」は、情報化と人間の変化を思弁的に追及した小説です。
その意味において、14歳の小説が縦横無尽に活躍するからと言って「ルー・ガルー」は凡百のライトノベルとは、立ち位置が全く異なる小説です。
ランバ・ラルなら、きっとこう言うでしょう。
「ライトノベルとは違うのだよ、ライトベルとは!!」
■ しかし「ルー・ガルー」はれっきとしたライトノベルだ ■
「ルー・ガルー」の続編が登場するなど、夢にも思っていませんでしたが、10年のブランクを経て、京極夏彦は「ルー・ガルー2」を発表しました。
今度も6人の少女達と、橡刑事と静枝が、消毒された社会の裏で蠢く陰謀を木っ端微塵に粉砕します。
10年前、私は「ルー・ガルー」を私は単行本で購入しましたので、表紙に女の子のイラストなど在りませんでした。
ところが今回の「ノベルズ版」は、冒頭のイラストが表紙に描かれています。(ライトノベルのアニメ風のイラストとは一線を画する、素晴らしいイラストですが・・・)
すると途端に少女達のイメージが脳内に沸々を湧いてきます。橡や静枝の表情も、浮かんできます。そして、それらは全て2Dのイメージです。
そうなると「ルー・ガルー」自体も「ライト・ノベル」に思えて来るので不思議です。
「10代少女達の冒険物語」は、まさに「ライトノベル」の中心テーマです。
以前、西尾維新を評論した時に、「京極夏彦の基本はライトノベルである」と書きましたが、やはりこの直感は間違えでは無い様です。実写よりも2Dのイメージが似合う京極夏彦は、新しい時代の作家達に先駆け的存在なのだと思います。
「ルー・ガルー2」は「1」に比べ、エンタテーメントの要素を強めていて、読みやすくなっています。それ故に、10年前に発売された「ルー・ガルー」を読み返すと、その素晴らしさに、今さらながら感動してしまいます。
是非、1、2共に読まれる事をお勧めします。