人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

妄想が暴走するマイナンバー・・・通貨の電子マネー化

2015-09-11 09:49:00 | 時事/金融危機
 

マイナンバー、3000億円掛けて「軽減ポイント蓄積センター」なるものを作るそうだ。
簡易軽減税率は口実に過ぎず、実は将来的な通貨の電子マネー化を視野に入れていたりして・・・。

国民の資産状況や消費行動が全て財務省に把握される・・・。「金の仏具3000万円」なんてもの記録されて、資産税課税時にゴッソリ持って行かれたりして。電子マネー化したら「箪笥預金」も炙り出されますね。これこそ公平な世界?!

ところで、落としたら大変なマイナンバー、「生体ICチップにすれば紛失しません!!」なんて政府キャンペーンが打たれたりして・・・。ビッックブラザーの世界はすぐそこだ。

一人リセット祭り・・・ゼーガペイン<再録>

2015-09-11 08:59:00 | アニメ
 
8月31日はリセットの日。舞浜に『ゼーガペイン』のファンが集まる日だそうですが、今年こそちょこっと覗きに行こうと思っていてましたが・・・。昨日、舞浜大橋の下を通って「ハッ」と思い出しましが、既に9月10日・・・。そこで、『ゼーガペイン』の過去記事を掲載して、一人「リセット祭り」です。


「揺らぐ「実存」に対するアニメ的な回答・・・『ゼーガペイン』は『エヴァンゲリオン』への回答」
人力でGO  2013.10.21 より



<再録>




ネタバレ御免!!(我慢できずにアップしちゃいます)
『ゼーガペイン』 サンライズ

■ 日本の傑作アニメは何故かロボット物から現れる ■

先日、ご当地アニメを紹介する動画を見ていて、わが街「浦安(舞浜)」を舞台にした『ゼーガペイン』というロボットアニメが存在する事を知りました。オタクを自称する私ですらタイトルを知らなかった位ですから、マイナーな作品に違いありません。興味本位で見始めたら、これがとても面白くて、全26話を、家内や娘の冷たい視線に耐えながら一気に見てしまいました。

2006年のサンライズのオリジナルストーリーですが、『エヴァンゲリオン』が投げっぱなしにした宿題の、一つの、そして見事な回答を見る思いがしました。

しかし、日本の傑作アニメはどうしてロボット物から現れるのでしょうか?
これを考え出すと夜も眠れなくなりそうな謎の一つかも知れません。

■ 揺らぎ続ける現代人のアイデンティティー ■

現代人の悩みの一つが「アイデンティティー」に対する疑いです。
「自分が自分である事」は、自分自身が最も理解しているのですが、現代人にとって「自分である事」はことのほか難しい事だと私は時々思います。

「自分らしく振舞いたいのに、様々な制約でそれが出来ない」という、現実的な問題とは別に、情報化社会において私達は「無限の選択肢」の提示に絶えずさらされています。

例えば、テレビやネットには、自分と年齢が大して違わない「成功した人」が大勢登場します。私達は軽い羨望をもって彼らを眺めます。「もしかしたら自分にもこんな人生が送れたかも知れない」という軽い嫉妬の混じった気持ちを味わいます。

戦後の平等主値が私達にもたらした最大の変革は「努力すれば何にでも成れる」という思い込みです。確かに身分制度が無くなり、貧富の差が縮小し、教育の機会が平等に与えられる現在においては、それは正しい認識かも知れません。

ところが、実際の人生においては、コンピューターのプログラムの「if文」の様に、「選択肢」はそれこそ5分毎に訪れますが、「YES」を選択する機会は恐ろしく少ないのが現実です。

極論すると、人は「選択」をしない事で、自分のアイデンティティーを維持している様にも思えて来ます。仮に、様々な選択肢でポジティブに「YES]を選択したとすると、その人に人生は、ハチャメチャなものとなり、直ぐに破滅してしまうかも知れません。

現代人において、選びうる選択肢は無限に拡張し続け、私達は「有り得たかも知れない自分」を想定する事で、アイデンティティーを絶えず揺さぶられ続けているとも言えます。

■ 「実存の不確かさ」が「アイデンティティー」を蝕む現在科学 ■

科学の進化は、私達が見ている世界の姿を一変させました。

量子力学の進歩は、世界が量子の波動関数で表記可能な一種の「おぼろげ」な存在である事を示唆しています。

コンピューターの発達は、将来的に私達の存在をバーチャルな数式で置換する可能性を否定しません。

最先端の物理学は、平行宇宙論など、私達の「実存」の絶対性に疑問を投げかけています。

こういった、現代の科学の提示する「実存の不確かさ」は、「アイデンティティーの揺らぎ」を物理的世界の領域で拡大します。要は、「ボクって誰」という問いかけに対しての答えが消失してしまったのです。

従来「アイデンティティー」や「世界の有り方」に対する問いかけは、哲学的で宗教的なものでしたが、現代においては科学の領域になったとも言えます。

■ 自己のアイデンティティーの揺らぎを世界に拡張した『エヴァンゲリオン』 ■

SF小説やアニメや漫画は昔から、「実存」と「世界の成り立ち」に対して、何回も挑戦を繰り返して来ました。

手塚治の『火の鳥』も、富野の『伝説巨人イデオン』も、「人間とは何処から来て、何処へ行くのか」というテーマを追求した作品ですが、その答えは非常に「神学的」です。『火の鳥』では神が、『イデオン』では「イデという超越した知性」が人間を創造した事になっています。

これらの作品に見られる「実存主義」は、サルトルの提唱した個人主義、自由主義的な「実存」では無く、むしろ「神との契約者としての個人」の在り方を追求したキルケゴールのそれに近いものを感じます。東洋思想に慣れ親しんだ日本人にとって、徹底した個人主義のサルトルよりも、「大きな摂理に従う個人」という概念の方が馴染み易いのかも知れません。尤も、多神教の日本人にとっては神とは「自然」であったり「この世の理」であって、人格を持つ西洋の神とは異質な物とも言えます。

これに対して、ゼロ年代の幕開けを告げた『エヴァンゲリオン』は、現代科学をベースに「実存」を再定義しています。「世界は碇シンジという少年の夢であった」という定義です。

「世界の認識は、個人の知覚に依存し、世界は個人の脳内で再構築される」といいった生理学的認識論と、量子力学の提示した「観測者が世界のあり方を変えてしまう」という考え方は、世界の存在の根拠を非常に個人的な物と捉える事を可能にしました。その結果、「我思う故に我在り」といった「唯我論(独我論)」に近い形で世界と個人との関係を捉る事が可能となりました。

ただ、西洋哲学の「実存」が「世界の把握と主体の確立」を目指した事に反して、エヴァンゲリオンに見るシンジの「実存」は、曖昧で確固をした輪郭を持っていないません。彼は結局は自分の意思では何も選び取る事はせず、世界は結局はあやふやなままに再構築されます。

これは遡れば、中国の道教の説話の「胡蝶の夢」に繋がる概念でもあります。「夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか」といったお話しなのですが、世界の主体が「確固とした個人」では無く、「誰か」あるいは「蝶々」といった、ごくありふれた存在である所が東洋的です。

エヴァンゲリオンに続く「世界系」と呼ばれる作品の多くが、簡単に分類すれば「夢落ち」、言い換えれば「胡蝶の夢」のバリエーションに過ぎません。

ゼロ年代の「世界系」に共通するのは、主人公が自己のアイデンティティーを大きく揺さぶられた時に、「世界の認識の反転」が発生する事です。

例えば、涼宮ハルヒは小学生の時に、野球場で自分と同様に野球を観戦する数万人の人々を目にする事で、自分が何億人も存在する人間の一人に過ぎない事を痛感します。「直観した」と言い直した方が適切かも知れません。その結果、ハルヒは無意識の内に世界と自分の関係を反転してしまいます。「世界はハルヒが作った」、或いは、「世界はハルヒの夢である」と再定義する事で、自己のアイデンティティーの保存を図ったのです。

『エヴァンゲリオン』はもう少し複雑で、「使徒との戦い」と「サードインパクトの阻止」という責務がシンジには課せられています。これは、一人の中学生男子には有り余る重責で、彼はその責務から絶えず逃げようとしています。父親に認められる為の、或いはカワイイ女子に認められる唯一の方法が、使徒の殲滅とサードインパクトの阻止ですが、これを成し遂げてしまったら、それこそシンジは神の様な存在となり、「優柔不断で頼りないシンジ」即ち、極々一般的な悩める中学生としてのアイデンティティーを喪失します。

ここで、世界を反転させたのは、何とシンジでは無く庵野監督自身です。あまりにも大風呂敷を広げ過ぎて、それに相応しい結果を用意していなかった庵野監督は、作品自体を「夢落ち」にして、世界を反転させてしまったのです。要は、結論を放棄したのです。

劇場版では、それらしい体裁を整えてみせますが、ここでも「夢落ち」が繰り替えされます。「胡蝶の夢」よろしく、世界はシンジの見る夢が如く、彼の主観によってリセットされるのです。視聴者はTVシリーズが積み上げた様々な科学的イメージの断片によって、科学的な結末が訪れた様な錯覚に陥りがちですが、物語の結末は放り出されあまま、「実存」は損なわれたままで、回復する核を失っています。

『エヴァンゲリオン』とは、シンジの自信喪失の物語であり、彼は最後までアイデンティティーを確立出来ずに、世界を不確かな物にしてしまったのです。

■ 『魔法少女 まどか☆マギカ』は、「実存回復」の物語である ■

一方、『エヴァンゲリオン』と真逆の過程で「実存」の回復の一つのプロセスを描いたのが『まどか☆マギカ』です。

まどか達、魔法少女の戦う世界は、時間を遡行する魔法少女「ほむら」の能力によって無限の分岐とループを繰り返しています。並行宇宙論などが一般的になった現代特有の世界設定とも言えます。

その、無限の選択肢を持った世界の中の一つで、まどかは、最後まで「選択を保留」しています。これは、一見、アイデンティティーの確立を拒んでいる様に見えますが、多くの選択肢によってアイデンティティーが揺らぐ現代においては、唯一、自己を確立する方法とも言えます。

そうして、最後まで何物も選択しない事で、彼女は最大のフリーハンドを確保しています。そして最後に彼女が願ったのは「過去と未来に渡って、魔女の誕生を防ぐ」事。

世界系の多くの主人公達が、選択の果てに自己と世界を同化するという方法に逃げ込むのに対して、まどかは、「システムとして世界に作用し続ける事」を選択します。

「世界との同化」と「システムとして世界に作用し続ける」事は一見同じ様に見えますが、主体性という観点で見れば、この二つは又く逆の存在です。

「世界と同化」した者には、自分という作用の原点が存在しません。世界の変容と同時に自分も変容してしまいます。一方、まどかの選択には作用の原点にまどかの存在が確かにあります。ほむらの知覚できる世界は、その作用後の一つに過ぎず、まどかは、上位の意思決定者として、ほむらからは観測する事は出来ません。

これは「神」と同等の存在になったとも言えます。

では、世界の創造者としての「ハルヒ」や「シンジ」と、「まどか」の「神」は何に違うのでしょうか?

「ハルヒ」や「シンジ」は「未熟な神」です。胡蝶の夢の蝶々かも知れません。無自覚で無責任な存在です。

一方、「まどか」は彼女の強い決意において、世界の統制者の地位を選択します。これは唯一絶対の存在とも言え、キリスト教的な神に近いのかも知れません。

『まどか☆マギカ』が若者に心に強いインパクトを与えたのは、『エヴァンゲリオン』以降、「東洋的な無責任な神」がアヤフヤにしてしまった「実存」を、もう一度「確かな物」にしようとする強い意志が存在するからなのかも知れません。

■ 物語の始めにおいて「実存」を喪失した世界 ■


『ゼーガペイン』  サンライズ


<警告>
ここからネタバレ全開!!作品を見てから読んで下さい!!
この作品、一話一話丁寧に見る事で徐々に核心に迫ります。
内容を知ってしまうと、感動出来ません。


実は『まどか☆マギカ』の5年程前に「実存の回復」に挑戦した作品が、本日紹介する『ゼーガペイン』です。

舞浜南高校の1年生の男子生徒、十凍 京(ソゴル・キョウ)はふとした切っ掛けでロボットに乗って戦う事になります。彼が戦う世界は、対戦ゲームの『ゼーガペイン』と同じ設定の世界です。彼は日常生活から、ゲームの世界へ「召還」されて戦います。当然、キョウは、ネットゲームの様な一種のバーチャル空間で自分が戦っているものと認識しています。

そんな彼にショッキングな事実が告げられます。彼が戦っている荒廃して人が一人も住んでいない世界こそが本当に世界であり、彼が日常生活を送る「舞浜」は、「舞浜サーバー」の中のバーチャル世界なのだと。

さらには、人間は致死性の伝染病の蔓延で絶滅しており、ただ、量子コンピューターの量子サーバーの中に記憶された個人情報とバーチャルな街の情報の中だけで、データとして人間が細々と生き残っているのだと・・・。

この設定は明らかに映画の『マトリックス』の影響を受けています。自分が現実と信じていた世界が「虚構」で、現実の世界は既に滅んでいたという設定です。

『ゼーガペイン』において主人公の「実存」は最初から存在しないのです。主人公は確固とした存在を持たない「データ」でしかありません。

■ 素粒子の波動関数としての人と意識 ■

『ゼーガペイン』において人のデータは、DNA配列などの遺伝情報では無く、人間を構成する全ての分子や素粒子のデータであると設定されています。

人間は物質の集合体であり、その組成や配列や体組織のデータを忠実にコード化すれば、人間を電子的に再現する事は不可能ではありません。しかし、電子的に再現された体組織のデータに自我や意識が発生する事はありません。コード化された体組織は「死体」の様な物なのかも知れません。

この物語では、体を構成する素粒子の状態の一つ一つをシミュレートする事で、そこに意識や自我が発生すると定義しています。意識や自我は物では無く、物質の素粒子の変異の状態、いわゆる波動関数として表されるのです。

量子コンピューターは、その莫大な情報量と計算量にいて、現実の世界と人間の「状態」をそっくりコード化してコンピューターの中に再現しているのです。

ここら辺の設定は、『マトリックス』よりも科学的でスリリングです。『マトリックス』では「実存」としての人間は睡眠状態で保存されており、その精神活動のみを電子的に抽出してバーチャル空間で活動させています。ですから、意識や自我の原点を追求する事も無ければ、キアヌ・リーブス演じる主人公は、自分の「実存」を疑う必要はありません。

一方で『ゼーガペイン』の主人公達は、自分の「実存」が既に損なわれた事を知っています。自分達が既に「幽霊」である事を理解しているのです。

■ ホロニックな虚像としての実存 ■

サーバーの中のデータに過ぎないキョウ達が、現実の世界で戦う為には、現実世界にキョウのデータを転送して、再構築する必要があります。再構築は物質的に成されるのでは無く、光学的なホログラフィーの様な状態で再現されます。

搭乗するロボットも光子(光の素粒子)の高密度な集合体だと説明されます。出撃はデータ転送の形で、人とロボットを同時に転送しますが、その実態が光子である事から、転送と言うよりは「投影」と呼んだ方が正しいのかも知れません。

光子は重さを持たない素粒子でありながら、エネルギーを持っています(事実)。中学の物理の実験には、真空中の風車を光で回す実験があります。質量を持たない光(光子)でも、質量を持つ風車に作用を与える事が出来るのです。従って、高密度の光子の集合体であるロボットは半ば実体として戦闘をする事が可能なのでしょう。

この様に、量子コンピューターにデータとして記録されているキョウ達は、ホロニックな虚像として、現実世界に顕現し、敵と戦います。

彼らは、量子サーバーの中の「幽霊」として存在し、現実世界に顕現しても、それは映像的幻で、現実の物に触れる事も出来ない、やはり「幽霊」の様な存在です、

■ 永遠に繰り替えされる5ヶ月 ■

自分の存在を認識出来、さらには現実世界と同様他人ともに交流出来るバーチャルの世界は、一見現実の世界と変らないとも言えます。ですから、キョウ達一部の覚醒者(セレブランと)以外は世界が幻である事すら知りません。

しかし、量子サーバーの容量制限により、バーチャルの舞浜は、入学式から夏休みの最後の日を繰り返しています。8月31日になるとい世界はリセットされ、初期状態から再びシミュレーションが繰り返されます。これはハルヒのエンドレスエイトに近い世界です。

現実を知らない人達は違和感をデジャブとして感じ取りますが、8月31日になれば違和感すらも忘れ去らざるを得ません。

量子サーバーは機械ですからいつかは壊れます。舞浜サーバーの住人達は、永遠の5ヶ月を繰り返しながらも、確実な死に向けて歩んでいるのです。

■ 永遠の中の喪失 ■

平穏な日常を送る舞浜サーバーの外の現実の世界では、「ガルズオルム」と呼ばれる謎の勢力と、覚醒した人々の「セレブラム」が壮絶な死闘を繰り返しています。

キョウ達は「ゼーラペイン」と呼ばれるロボットに搭乗して戦いますが、データとしての彼らにも生命の危機が付き纏います。

量子データの転送は、元データを保存出来ないのです。現実世界の戦いの場に転送された人体データが、そこで損傷を受ければ、「幽霊」の命も絶たれます。運よく、再転送によって一部を回収したとしても、人格や記憶の再現に問題が生じます。キョウはかつての戦いにおいてデータを著しく損傷し、記憶を失っています。

さらには、転送は極僅かですが転送エラーとデータロスを伴います。量子データが大き過ぎるので、確率的エラーも蓄積すれば、「幽霊」の生命を脅かします。戦いの度に、彼らは少しずつ自分を失って行くのです。

彼らはデータとして永遠を生きながら、確実に彼らの生命は削られているのです。

■ 「生」を確認し合う人々 ■

覚醒者であるセレブラントは、自分の主体が喪失している事を知っています。自分が幽霊であると知りながらも、彼らは人間性を喪失する事はありません。

それは彼らにも、データとしての死が存在するからであり、死の存在が、データとしての彼らに生命としての尊厳を与えていると言っても過言ではありません。彼らは戦いの中で、自分の「生」を強く自覚するのです。

仲間の死は、仮にそれがバーチャルな存在であったとしても、強烈な喪失感と悲しみを彼らに与えます。

これは、「虚構」であるアニメが現実感を獲得する為に、主要登場人物の死を演出的に利用する事に微妙にシンクロします。

■ 「実存」を喪失しているからこそ、かけがえ無い人を思う気持は純粋で切ない ■

バーチャルとして「実存」を喪失している彼らも恋をします。又、大切な仲間や友人を思いやる気持に溢れています。むしろ、彼らはそういった「人間的な気持」、あるいは「情緒」に固執する事で、自分の「実存」を確かめ様としているとも言えます。

「自分自身の存在は不確かだけれど、オマエを思うこの気持には偽りは無い!!」
この熱い気持こそが、彼らの自我の崩壊を食い止めているとも言えます。

陽炎の様に存在が不確かな彼らが、必死になって相手を思いやる姿は、視聴者を切ない気持で一杯にします。

■ 「実存」の不確かさを「情緒」で埋める日本のアニメ ■

冒頭で『ゼーガペイン』が『エヴァンゲリオン』への最良の回答の一つだと書きました。

エヴァのシンジは、結局は誰も信用しない事で、他者との関係性を否定し、自分の世界へと引き篭もります。唯我論的世界の王になる道を選択するのです。

一方、『ゼーガペイン』の人々達は、他者との関係性の中から「自己の主体」を回復して行きます。その原動力となるのは「情緒」です。

私達自身、生の実感を感じるのは、意外にもわが子の成長に目を細める時や、カミサンとケンカして仲直りする時だったりします。哲学的に「僕って何」などと考えると、自分の存在は非常に儚いものに感じたりするのですが、結局は繋いだ手の温もりみたいな物が、自分の存在を一番確実に確信たりします。

これはちょっと面白い現象で、自分中心に世界を見ると「実存」が揺らぐのに対して、他者の存在を介在すると、意外にも自分の存在が確かな物に感じられる・・・。視点の相対化で私達は自分の存在を不確かなものにする一方で、同じ視点の相対化によって私達は自分の存在を確認しているとも言えます。

結局、古くから繰り返されて来た哲学的問答は、新しい科学をも取り込みながらも、現在でもその答えを探していると言えます。人間の「実存」は、ある一瞬、非常に確かな物として感じられるのですが、その直後には揺らいでしまうのかも知れません。をれは、量子の状態確率みたいなもので、そこに在ると思った瞬間には、既にそこに無いのかも知れません。

実はこんな「実存」が揺らいだ状態こそが、人間の本来の姿なのかも・・・『ゼーガペイン』を見ながら、こんな、中二病的な気持になるのは、あまりにも儚げで優しい気持が、作品全体に溢れているからかも知れません。

■ ロボットアニメは現代における「剣と魔法の物語」 ■

私は海外のSFと日本のSFアニメの最大の違いは「情緒」の存在にあると常々考えて着ました。海外のSF小説は、非常に論理的で合理性を重んじます。決して、主人公の熱い思いや拳で、世界が一変する事は無いのです。

一方、日本のSFアニメは、最後は友情や愛情によって世界が救われたり、変質します。これは、西洋の小説ではファンタジーに近い構造と言えます。

私達がSFアニメに期待するのは「情緒が科学に打ち勝つ瞬間」であり、これは「愛が魔法に打ち勝つ瞬間」を期待するディズニーアニメに近いものかも知れません。「剣と魔法の物語」は、物語のステロタイプとして神話の時代から語り継がれている、最強の物語のフォーマットです。

何故、ロボットアニメから名作が生まれるのか・・・・。
もしかすると、日本におけるロボットアニメは「剣と魔法の物語」のバリエーションとして、「愛が魔法を打ち砕く瞬間」の演出に最適化しているのかも知れません。


「実存とは何か」という古くて新しい疑問に一つの回答を与える作品として、そして現代の優れた「剣と魔法の物語」の一つとして、『ゼーガペイン』は、もっと評価されるべき作品ではないでしょか。



<追記>

最後に、ヒロインのカミナギ・リョーコ役の花澤さんの演技があまりにも初々しい事を特筆しておきます。「棒」と揶揄されても、こういうキラキラした瞬間は、俳優さんも、声優さんも、人生のある一時期しか訪れません。演技で出来ないからこそ、素晴しい「棒読み」だと思うのですが・・・。この素晴しい「棒」によって、ヒロインの儚さや初々しさが何倍にも増幅されていると私は断言します。あまり声優さんの名前などチェックしない私ですが、とても印象に残る演技だったので・・・。

誰かに似ていると思ったら、『あの夏で待っている』の石原夏織の演技ですね。そう言えば、『輪廻のラグランジェ』でも素晴しい「棒」を披露していました。(褒めてますよ!!)


<追記2>

あまり褒め過ぎて「期待はずれだった」と恨まれてもいけないので、この作品が支持されなかった理由も少し考察してみます。

先ずはロボットアニメとしては戦闘シーンがあまりにもお粗末な事。サンライズのCGが過渡期にあったという理由もあるかも知れませんが、ゲームの様な戦闘シーンにガッカリして視聴を打ち切ったアニメファンも多いと思います。実際の戦闘をゲーム世界と主人公が勘違いしていたという設定上のフォローはされていますが、敵を撃破する醍醐味に欠けています。さらに、魅力的な敵キャラが存在しない事も、ロボットアニメとしては寂しい限りです。

また、作画のクォリティーが高く無い事もファンの歓心を欠く原因かと思います。

26話を使って物語や人物の関係が丁寧に描かれていますが、これも現代のスピーディーな展開に慣れたファンにはまだるっこしいと感じる点かと思います。エヴァで庵野が見せたカットアップや、スリリングな展開以降、日常生活を送っている所に敵が出現して、戦闘して勝利して日常に戻って来るという一話の構成を繰り返すロボットアニメは既に過去の遺物となってしまいました。一言で言ってしまうならば『ゼーガペイン』はロボットアニメとしては非常に出来が悪いのです。

一方でSF的な設定や、哲学的な命題、そしてそれらの解答として用意されている人間関係の深まりや、細かな心の機微の表現には目を見張るものがあります。これらの要素は、現在のアニメの水準を軽々と凌駕しており、高校生の揺れ動く恋心を描いた作品としても秀逸です。

では何故こんなにも無名なのか・・・?(パチンコ機にはなっていますが)
それはひとえに5話までの話しの立ち上がりが悪すぎるのです。主人公が置かれた「???」の状態を視聴者も同時進行で経験するので、世界の構造を理解するまでに脱落した方達が沢山いらっしゃると思います。

6話目で、世界の本当の姿が明らかにされる事で、5話目までの伏線が非常に意味を持つのですが・・・それでも5話目までの展開が単調過ぎるのでしょう。6話を過ぎてしまえば、もう結末まではノンストップです。人物への思いいれも深くなりますし、粗雑に扱われるキャラクターはAIも含めて一人も居ません。

必ずしも「傑作」とは言いがたい『ゼーガペイン』ですが、ネット評を見ると、「好きな人は大好き!!」と言った、カルト的人気は高い様です。エヴァ同様に、色々と考えを巡らすネタとしても充分に面白いからでしょう。

当時の放送時間はTV東京の夕方だった様ですが、これ、深夜枠で今放送したら、絶対に人気が出ると思うのです。少し早すぎた作品なのかも知れません。


劇場版?の予告を見つけました。(良く出来てますね)



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