ウエイン・ワンが日本映画に挑戦した、なんていうキャッチはあまり面白くない。なんで、日本映画なのか、というのも、つまらない。ボーダレスになった今の時代、日本映画だとか、アメリカ映画だとかいう垣根はない、と思いたい。しかし、厳然として僕たちの意識の中にはそれがあるようだ。これをウエイン・ワンの新作として見る前に、「ウエイン・ワンの日本映画」という色眼鏡で見てしまう僕たちがいる。外国人に日本人は描けない、とか。これをウエイン・ワンのキャリアの中に加えたくないとか。
でも、本人にはそんな気はサラサラないかもしれない。そんな差別する気持ちでこの仕事を引き受けるような作家ではない。ということは、僕たち観客がまだまだダメな意識しか持てないと、いうことか。あの『スモーク』の監督が日本映画を撮る、という意識から離れなくてはならない。
だから純粋に1本の映画として、この作品と向き合う。(そんなこと、当然の話なのだが)そうすると、やはりなんだか物足りない。そのものたりなさは、彼の映画として見た時、作品のレベルが低いということに尽きる。要するに、ウエイン・ワンへの期待は大きい、ということか。やはり、日本映画は彼には無理だった、という見方をしてしまう。この映画を差別している。
こういうミステリは話の面白さで引っ張っていくことができたならいいが、イメージで引っ張ると、だんだん力尽きていく。なぜ、どうして、と興味を持続するうち、どんどん核心に近付くことで、緊張が高まり、マックスに達した所から一気に思いもしないカタストロフがやってくる。それが定番。しかし、この映画は肩透かしを食らわす。あんなふうにラストを曖昧にしたまま宙ぶらりんで終わるのは納得いかない。雰囲気だけで中身のない映画に堕す。これまで見てきたものが、なんだったのか、すべてが妄想とするのか。どこまでが現実でどこからが誰の妄想か、その線引きを曖昧にしては、納得するはずもない。象徴的に描くことで、緊張感を持続するのはいいのだが、着地点で失敗した。
若い女と初老の男。彼らの存在が気になって仕方ない作家。暇にあかせて、彼らをずっと監視するだけではなく、部屋にまで忍び込む。もうそれは犯罪行為だ。あるレベルを超えてしまうことで、彼がどう壊れていくのか。そうすることで、どんな風景が見えてくるのか。そこがもっと明確になるなら、このお話でもついていけたのだが、そうはならない。妻が仕掛けた罠かもしれない、なんていうのも、つまらない。
現実と妄想の区別がつかなくなっていく、という展開は定石だが悪くはない。迷路の中にはまり込み、そこからどう脱出するのか。これはスティーブン・キング原作、キューブリック監督作品『シャイニング』と同じパターンなのだが、あの映画のような狂気に至らない。ホラーとミステリの違いではない。キューブリックの遺作『アイズ・ワイド・シャット』にも似ている。でも、もっと日常目線だ。舞台が伊豆のリゾートホテルだし。西島秀俊とビートたけしの対決を期待しただけに、そこでも、肩透かしだった。思わせぶりだけで、はぐらかされた気分になる。がっかり。