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映画・演劇のレビュー

太陽族『越境する蝸牛』

2007-07-03 10:07:30 | 演劇
 衝撃的な傑作である。ここまで攻撃的で、尚且つ冷静に物語を組み立てていき、破綻するのは承知の上でもう一歩踏み出し、しかもその矛先を引っ込めてしまう。その時、これ以上やれば、嘘になってしまうことは分かっていたけど、だけれどもこの怒りは納めることが出来ないから、敢えて[総理大臣拉致事件]までもを描いてみせる。

 もちろんそれをリアルに見せることが眼目ではないことは明らかなのだが、それでもやらなくては我々庶民の気持ちが収まらないのだ。(もちろんそれは岩崎さんの気持ちでもあり、何よりこの芝居の主人公たちの思いだ。)それをリアルに描くのではなく幻想シーンなんかにもしない。だから、こういう茶番を彼らに演じさせる。それが、茶番だなんて分かった上でやっていることの悲哀。この後、芝居は、それだけでは済まさない。しっかり現実を突きつけることも忘れない。どこまでやるのか、と思わせるくらいに凄い。

 2027年、日本が、北朝鮮に出兵し、アメリカと共に内乱鎮圧に関与するが状況は簡単に収拾するわけがない。戦争は泥沼に陥るのは今までの歴史が証明している。韓国だけでなく、中国も黙っていない。アジア全体を敵にまわしてそれでも平和を守るなんてバカを政府は言っている、のだろう。

 そんな時代の中で、国民はいったいどれだけの犠牲を強いられることになるのか。それを、この芝居は天満にある在日朝鮮人家族が経営する小さなコリアン料理店を舞台に描く。この店が開店休業中になるのはおおっぴらには言わないが、日本人による国民感情が原因だったりする。そして、国はどんどんとんでもない方向に向かう。茶番劇の最後、召集令状がニートの兄のもとに届く。そして迎えた怒濤の終末は、戦死した彼の葬式。彼が戦地ではなく国内で死んでしまったこと。いくつもの事実の中、閉ざされた店の中に、雪が降る。2028年2月のことである。見事なエンディングだ。

 こんなふうにしか描けない。そのギリギリにまで、作品を追い詰めて行く岩崎さんの覚悟の程が伝わってくる。熱くて、冷静な芝居だ。ただ興奮しているだけではこれは描けない。どこまでが芝居では可能なのか、計算が尽くされている。演劇という表現とのギリギリでの葛藤である。玉砕を覚悟で芝居を作ったりはしない。やれることを見極めその中で最大限のものとする。細部まで目に行き届いた作品だ。だから、感動する。主人公である店主(森本研典)の前妻を演じた岸部さんに悪を集約してしまったり、篠原さんに無意識な行為の怖さと可能性を託してみたりすることも含めて、今の太陽族に出来るあらゆる可能性が、この芝居には模索されている。

 これはSFではない。この近未来劇は虚構の世界での20年後ではなく、現実はこれ以上のものになっている可能性すらある。どこかで誰かが歯止めをかけなくてはなるまい。今この国は、とんでもないことが、平気でまかり通ってしまうような危険な状態にある。なのにそのことに気付きもしない人や、気付いても最初から諦めてしまう人ばかりが、蔓延る。熱くなり戦おうとする人はただのバカにしか見えない。そんな中でみんなが状況に流されて気付いていたのにどんどん悪化の道を辿っていく。

 この芝居に描かれる20年後は、明日の我々だ。そのことが冗談ではないリアルさで迫ってくる。この怖さを僕たちは真摯に受け止めなくてはならない。岩崎さんは今しっかり言わなくてはならない、という使命感に燃えて芝居を作る。こんなにも直球で本気の芝居を見るのは久しぶりのことだ。そこには厭世的な口調はない。しっかり現実を見据えて言うべきことを全力で言う。力の限りを尽くして芝居に語らせる。演劇に何が出来るかという強い意志がここにはある。
 


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