まだ若い、しかも、女性監督の劇場用映画デビュー作だ。凄い時代になったものだ。20代前半の監督が、商業映画(自主映画からも)でどんどんデビューする。いろんな可能性が実現する時代になったのかと思うと、僕が20歳前後だった時代とは隔世の感がある。77年『青春の殺人者』で長谷川和彦が30歳でデビューした。翌年『オレンジロード急行』で大森一樹が、『情事の方程式』で根岸吉太郎が20代でデビューして、凄い時代が始まったと思った。(余談だが、同じ年、78年に僕も『ねじ式以後』で8ミリ映画デビューしている)
1980年前後のあの頃とはもう時代が変わってしまった。映画を撮るということが、特別なことではなくなった。同時に映画を見ることも特別ではなくなった。なんとも不思議な時代になったものだ。そんな時代に僕はもうついていけない。
映画は特別なものだ。作るなんてとんでもない。見ることもなかなかかなわない。だから、映画館は最高の遊び場だった。でも、今は配信でなんでも簡単に見ることが可能で、特別でもなんでもなくなった。映画が大事にされない。ただただ消費されていく。消耗品に成り下がった。そんな時代だけれど、だからこそ、僕は自分が好きな映画は大事にしたいと思う。1本、1本を大切に思い、見ていたい、と思っていたはずなのに、今、配信(TV)で毎日湯水のように見ている。結果的にまるで大事にしていない気もする。見た映画の感想も書くことなく、はい、次、と見流している。それって「なんだかなぁ、」である。
この映画もなんとなく、見つけてきて寝転んで見ていた。正直言うとつまらなかった。こんな独りよがりでいいのか、と思う。作者の拘りはわかるけれど、これではまるで伝わらない。お話の説明はいらないけど、この程度の見せ方で観客の胸に届くわけもない。見終えたとき、凄く腹が立った。映画をバカにするな、と。だけど、少し時間を置いたとき、このわがままな映画なら知っている、と思う。僕が昔作っていた映画と同じなのだ。8ミリで作ったどうしようもない映画である。自分にはわかるけど、人には伝わっていかない自己満足の自主映画もどき。今なら恥ずかしくて見たくないレベルの幼稚な映画の姿勢と似ているのだ。もちろん、それはこの映画と較べるまでもないしょうもない子供だましだ。これはとりあえず商業映画として劇場公開されるだけの、作品には仕上がって。だけど、根本のところが似ている気がしたのだ。だから、見たとき必要以上に腹が立ったのだろう。
主人公のふたりの関係性がわからない。現実と幻想の淡いで揺蕩うような作り方は、逃げでしかない。説明不足と、説明できないというのは違う。いろんな意味でこのレベルで劇場用映画が作られるべきではないと思った。だけど、この映画を凄いと評価する人もいる。その気持ちはわからないでもない。この作り手は自分の方法論をしっかりと持ち自信を持ってこの映画を作っている。それは事実だ。