
平田オリザの今回の新しい挑戦は、ロボット演劇ではなく、「ロボットの登場する普通の演劇」というコンセプトである。この発想の転換は大きい。「世界初のロボット演劇」を目指すのではない。もちろん結果的にそうなっても、それはそれでいい。
平田さんは殊更ロボットに上手な芝居をさせて、それをみせようとはしない。これは見世物演劇ではないのだ。登場人物の中にさりげなくロボットを混ぜて、ロボットが人間と共生する世界を構築する。ロボットが人と普通に暮らす世界を描くのだ。それをシリアスな現代劇というか、近未来の話、というか、そんな感じ。手塚治虫の『鉄腕アトム』の世界のような空間を作る。まぁ、まだそこまではいかないけど、人型ロボットが学校に行くような世界。それを『銀河鉄道の夜』というフォーマットで、ファンタジーとして見せていく。オリジナルは子供たちに向けた1時間ほどの作品である。そこにロボピー(ロボットの名前)を、キャスティングして、基本はそのままの話として見せる。人とロボットが共生する社会ということを前面に押し出すと、それは『銀河鉄道の夜』ではなくなるから、そこはこれから先の問題として置いておき、今は自然にロボビーがこの劇世界の中に混ざっているだけで成功だと判断する。
ロボビーの芝居は驚きではなく、ロボットが自然に小学校の教室にいることのリアルを大切にする。ジョバンニとカンパネルラ(こちらをロボビーが演じる)の別れを描く原作の精神を何よりも大切にする。
背景となる映像が作品世界を大きく助ける。ふつうなら平田さんはこういうことはしない。だが、今回このCGによる宇宙空間がどんどん背景に流れていき、その中を主人公の2人が旅していく姿を描くことで、その圧倒的な巨大スクリーンに投影された映像が、主人公の小ささと対比される。表情のないロボビーと、表情を必要としない平田演出と相俟って、この静かな芝居は淡々とした2人の旅を見せていく。
どうしようもない別れを受け入れるしかない2人の悲しみが胸に突き刺さる。感傷過多の芝居ではなく自分たちの現実をきちんと受け止めていこうとする子供たちの姿にこの作品のメッセージを感じる。それをロボットに演じさせることでさらなる普遍性を持たせる。そういう意味でこのふつうの演劇は、やはり画期的なロボット演劇として成立する。
平田さんは殊更ロボットに上手な芝居をさせて、それをみせようとはしない。これは見世物演劇ではないのだ。登場人物の中にさりげなくロボットを混ぜて、ロボットが人間と共生する世界を構築する。ロボットが人と普通に暮らす世界を描くのだ。それをシリアスな現代劇というか、近未来の話、というか、そんな感じ。手塚治虫の『鉄腕アトム』の世界のような空間を作る。まぁ、まだそこまではいかないけど、人型ロボットが学校に行くような世界。それを『銀河鉄道の夜』というフォーマットで、ファンタジーとして見せていく。オリジナルは子供たちに向けた1時間ほどの作品である。そこにロボピー(ロボットの名前)を、キャスティングして、基本はそのままの話として見せる。人とロボットが共生する社会ということを前面に押し出すと、それは『銀河鉄道の夜』ではなくなるから、そこはこれから先の問題として置いておき、今は自然にロボビーがこの劇世界の中に混ざっているだけで成功だと判断する。
ロボビーの芝居は驚きではなく、ロボットが自然に小学校の教室にいることのリアルを大切にする。ジョバンニとカンパネルラ(こちらをロボビーが演じる)の別れを描く原作の精神を何よりも大切にする。
背景となる映像が作品世界を大きく助ける。ふつうなら平田さんはこういうことはしない。だが、今回このCGによる宇宙空間がどんどん背景に流れていき、その中を主人公の2人が旅していく姿を描くことで、その圧倒的な巨大スクリーンに投影された映像が、主人公の小ささと対比される。表情のないロボビーと、表情を必要としない平田演出と相俟って、この静かな芝居は淡々とした2人の旅を見せていく。
どうしようもない別れを受け入れるしかない2人の悲しみが胸に突き刺さる。感傷過多の芝居ではなく自分たちの現実をきちんと受け止めていこうとする子供たちの姿にこの作品のメッセージを感じる。それをロボットに演じさせることでさらなる普遍性を持たせる。そういう意味でこのふつうの演劇は、やはり画期的なロボット演劇として成立する。