唐十郎のいない唐組芝居を紅テントで見る、って初めての経験だ。ただそれだけでなんだか異様な気分だ。たとえどんな作品であろうとも、そこに唐十郎がいるだけで、紅テントは成立する。そんなことに改めて気づく。近年の唐組の芝居は、唐十郎の体調のせいなのか、上演時間がどんどん短くなり休憩時間込みで1時間20分(実質1時間強)なんていう作品もあった。それでも、唐さんが出るだけで作品は引き締まる。一時期はもう紅テントの芝居はみない、なんて思うこともあったけど、今はどこまで続けることができるのかを見守れたなら、なんて思う。今回、怪我で欠場し、演出も久保井研さんが担当し、もちろん唐さんの役は久保井さんが演じ、背水の陣で臨んだ8年ぶりの再演である。
正直言う。彼がいないだけで、ほかのすべてが同じであったとしても、紅テントの芝居だ、とか言いきれないものになる、という事実が判明する。ほんのワンポイントリリーフでしかなくても、彼が舞台に顔を出すだけで芝居はぎゅっと引き締まってくる。それがたとえ笑いをとるような芝居であろうとも作品に緊張感をもたらす。彼がいるだけでみんな幸せそうだった。それは観客だけでなく、役者だってそうなのだ。
本作は2時間半の長編である。新作ではなく以前の唐十郎作品だ。久保井さんの演出は唐十郎の世界をとても丁寧に再現している。まるで唐組の芝居を見ているような気分にさせられる。
というか、これはまごうことなく唐組の芝居なのだから、そういう言い方自体が失礼だし、間違っていることは明白だ。クレジットにも作、演出、唐十郎と書かれてある。(共同演出として久保井研)しかし、敢えてそういう言い方がしたくなるくらいに見事なのだ。だから、ものたりない。役者たちが頑張れば頑張るほど、何かが空転していく。まるでよくできたイミテーションのように見えてくる。作品はどこかが、なぜか、空回りしていく。おもしろいのだけど、乗り切れない。ラストまで見て、ほんの少し空しい気分になる。
唐十郎の不在という、ただそれだけのことが、これだけ大きな穴となる。そんなこと、わかりきっていたことなのに、そのわかりきっていたことの事実確認作業となってしまったことに、一抹の寂しさを感じる。この寂しさを乗り越えなくてはこの作品が成立しないことは、唐組のスタッフ、キャストを含むみんなが身に沁みて感じていることだろう。というか、そういう感傷にふけっているのは、僕たち観客だけか。
2部構成2時間半の大作は手慣れたルーティーンワークではなく、座長不在という不安の中での総力戦だ。この緊張感が作品を力強いものにした。稲荷卓央を中心にして、いつものメンバーが要衝をしっかり抑える。久保井研による荒巻ジャケも出過ぎず引かずの分をわきまえた怪演である。それだけにやはり痛々しい。
正直言う。彼がいないだけで、ほかのすべてが同じであったとしても、紅テントの芝居だ、とか言いきれないものになる、という事実が判明する。ほんのワンポイントリリーフでしかなくても、彼が舞台に顔を出すだけで芝居はぎゅっと引き締まってくる。それがたとえ笑いをとるような芝居であろうとも作品に緊張感をもたらす。彼がいるだけでみんな幸せそうだった。それは観客だけでなく、役者だってそうなのだ。
本作は2時間半の長編である。新作ではなく以前の唐十郎作品だ。久保井さんの演出は唐十郎の世界をとても丁寧に再現している。まるで唐組の芝居を見ているような気分にさせられる。
というか、これはまごうことなく唐組の芝居なのだから、そういう言い方自体が失礼だし、間違っていることは明白だ。クレジットにも作、演出、唐十郎と書かれてある。(共同演出として久保井研)しかし、敢えてそういう言い方がしたくなるくらいに見事なのだ。だから、ものたりない。役者たちが頑張れば頑張るほど、何かが空転していく。まるでよくできたイミテーションのように見えてくる。作品はどこかが、なぜか、空回りしていく。おもしろいのだけど、乗り切れない。ラストまで見て、ほんの少し空しい気分になる。
唐十郎の不在という、ただそれだけのことが、これだけ大きな穴となる。そんなこと、わかりきっていたことなのに、そのわかりきっていたことの事実確認作業となってしまったことに、一抹の寂しさを感じる。この寂しさを乗り越えなくてはこの作品が成立しないことは、唐組のスタッフ、キャストを含むみんなが身に沁みて感じていることだろう。というか、そういう感傷にふけっているのは、僕たち観客だけか。
2部構成2時間半の大作は手慣れたルーティーンワークではなく、座長不在という不安の中での総力戦だ。この緊張感が作品を力強いものにした。稲荷卓央を中心にして、いつものメンバーが要衝をしっかり抑える。久保井研による荒巻ジャケも出過ぎず引かずの分をわきまえた怪演である。それだけにやはり痛々しい。