予想を遥かに超える面白さ。ワンアイデアで芝居を引っ張っていくだけでなく、そのアイデアに囚われることも、それを生かす工夫を凝らすでもなく、ただ事実を中心に置き、語られていくドラマのあまりの自然さに、思わず笑ってしまう。
しかも、3話が3話とも全く違う語り口を持っており、それが意図的でなく、あまりに無防備な自然体に見えてしまう。こんなにも、拘りなくあっけらかんと自然なタッチが作れてしまうって何だろう。もう、はっきり言う。この作家は、天才ではないか。なんとなくやってしまったら、こんな風にできてしまった、という感じに見える。
第1話は、よくある青春もの。1人暮らしの大学生の部屋。友人を呼び、ウダウダ話してる。第2話は、シチュエーション・コメディーのスタイル。若奥さんと修理に来た男。2人の誤解に満ちたやり取り。第3話は、シリアスな自伝的ドラマ。若い劇作家の卵。一人暮らしの彼女のところに、心配して父親が訪ねてくる。
自在に語り口を変えながら、どのエピソードもよくあるパターンには全く収まらないものになっている。ただ、蛇口から、オレンジジュースが流れてくる、という芝居としては、たいして奇抜とは言えない設定。それを持ってきただけで、その他は全く、その状況以外何ひとつ不思議なことは起きないし、その状況自体も、そこから新たなる展開も進展もしないまま終わる。
不条理劇とすら、言えないような不条理が描かれていくのだ。ひとつのとんでもない状況がまわりにいかに波紋を呼ぶか、そこからドラマは展開していく、というのがドラマ作りの定型であるはずなのに、その定型なんか無視して、しまう。収まるところに収まらないのだ。
第3話の主人公の女性は、バイトを続けながら芝居を続けている。彼女は、今「蛇口からオレンジジュースが出てくる部屋を巡る3話からなるオムニバス」の台本を書いている。こう書くとすぐ、あれっ、て思うよね。この芝居自体がそこには描かれるのだ。そして、その女性直子役を、この芝居の作、演出である十時直子さん自身が演じている。これってバックステージものだったのか、なんて思わないこと。現実と芝居との関係性が入れ子構造をとってる、なんてことも言わさない。現実と虚構がどうのということではなく、現実そのものをそこに見せられたような不思議な気分がそこには残る。驚きではなく、当たり前、がそこにあるのだ。
ここには、作為的なものが、一切ないのが素晴らしい。「ありえない出来事の中の ありえる人々」というフライヤーのコピーが、見事にこの芝居の本質を示す。というか、この作者は確信犯である。この芝居のすべてをフライヤーでばらしてる。なのに、全く平気。そんなことばらしたって全く問題ない。手の内なんて何一つ隠す必要さえない。芝居はそれでも驚きの連続だ。
3話の繋がりも、単純すぎるくらいに単純。蛇口からオレンジジュースが出た頃の、一人目の住人。その部屋の次の住人。そして、この部屋の今の住人。それだけ。こんなにも何一つ仕掛けを作らなくって大丈夫なのか、と普通なら心配になるはず。なのに全然大丈夫。この天才作家には驚かされる。
これだけを、さらりと見せ、終わらせる。見終わった後、変わりない日常の1ページを見た事に満足してる。それって、なんだ?
ここまで書いてきて、この芝居のどこが凄いのかがあまり明確にされてないことに気付く。実はこの芝居の持つあまりに自然な芝居というものの有様が、驚きなのだ。何も起きていないように見えるが、何かが確実に起きていること。その《何か》の予感。それがここには描かれる。それは大事件ではない。オレンジジュースが蛇口から流れること、くらいのささやかなことなのである。そんなささやかな大事件がこの芝居なのだ。
高校生の頃から、その才能は充分認められてきた十時直子が本格的に作家デビューした現場を目撃出来た事を幸せに思う。
しかも、3話が3話とも全く違う語り口を持っており、それが意図的でなく、あまりに無防備な自然体に見えてしまう。こんなにも、拘りなくあっけらかんと自然なタッチが作れてしまうって何だろう。もう、はっきり言う。この作家は、天才ではないか。なんとなくやってしまったら、こんな風にできてしまった、という感じに見える。
第1話は、よくある青春もの。1人暮らしの大学生の部屋。友人を呼び、ウダウダ話してる。第2話は、シチュエーション・コメディーのスタイル。若奥さんと修理に来た男。2人の誤解に満ちたやり取り。第3話は、シリアスな自伝的ドラマ。若い劇作家の卵。一人暮らしの彼女のところに、心配して父親が訪ねてくる。
自在に語り口を変えながら、どのエピソードもよくあるパターンには全く収まらないものになっている。ただ、蛇口から、オレンジジュースが流れてくる、という芝居としては、たいして奇抜とは言えない設定。それを持ってきただけで、その他は全く、その状況以外何ひとつ不思議なことは起きないし、その状況自体も、そこから新たなる展開も進展もしないまま終わる。
不条理劇とすら、言えないような不条理が描かれていくのだ。ひとつのとんでもない状況がまわりにいかに波紋を呼ぶか、そこからドラマは展開していく、というのがドラマ作りの定型であるはずなのに、その定型なんか無視して、しまう。収まるところに収まらないのだ。
第3話の主人公の女性は、バイトを続けながら芝居を続けている。彼女は、今「蛇口からオレンジジュースが出てくる部屋を巡る3話からなるオムニバス」の台本を書いている。こう書くとすぐ、あれっ、て思うよね。この芝居自体がそこには描かれるのだ。そして、その女性直子役を、この芝居の作、演出である十時直子さん自身が演じている。これってバックステージものだったのか、なんて思わないこと。現実と芝居との関係性が入れ子構造をとってる、なんてことも言わさない。現実と虚構がどうのということではなく、現実そのものをそこに見せられたような不思議な気分がそこには残る。驚きではなく、当たり前、がそこにあるのだ。
ここには、作為的なものが、一切ないのが素晴らしい。「ありえない出来事の中の ありえる人々」というフライヤーのコピーが、見事にこの芝居の本質を示す。というか、この作者は確信犯である。この芝居のすべてをフライヤーでばらしてる。なのに、全く平気。そんなことばらしたって全く問題ない。手の内なんて何一つ隠す必要さえない。芝居はそれでも驚きの連続だ。
3話の繋がりも、単純すぎるくらいに単純。蛇口からオレンジジュースが出た頃の、一人目の住人。その部屋の次の住人。そして、この部屋の今の住人。それだけ。こんなにも何一つ仕掛けを作らなくって大丈夫なのか、と普通なら心配になるはず。なのに全然大丈夫。この天才作家には驚かされる。
これだけを、さらりと見せ、終わらせる。見終わった後、変わりない日常の1ページを見た事に満足してる。それって、なんだ?
ここまで書いてきて、この芝居のどこが凄いのかがあまり明確にされてないことに気付く。実はこの芝居の持つあまりに自然な芝居というものの有様が、驚きなのだ。何も起きていないように見えるが、何かが確実に起きていること。その《何か》の予感。それがここには描かれる。それは大事件ではない。オレンジジュースが蛇口から流れること、くらいのささやかなことなのである。そんなささやかな大事件がこの芝居なのだ。
高校生の頃から、その才能は充分認められてきた十時直子が本格的に作家デビューした現場を目撃出来た事を幸せに思う。