このディストピア小説の提示する世界に魅了される。あきらかに現実ではないわけだけど、この不安は現実のものだ。だからその世界にどんどん嵌ってしまう。読み始めたらそこから抜け出せない。この先どうなるのだろうか、という興味からではない。なんとかしてここから逃れられないかと、もがくようにページを捲ることになる。金子薫は以前『壺中に天あり獣あり』を読んでいる。あの小説もそうだった。この凄まじい地獄からの脱出を試みるように先へ先へと進もうとする。でも、安心はそこにはない。いや、確かに安心はあった。だけど、その安穏とした平和がさらに心を搔き乱していくことになる。金子薫はそこに見たこともないリアルな世界観を提示してくれた。ここからどこにいくのか、想像もつかない世界が広がる。そういう意味では今回も同じだ。
3章仕立てである。地下世界で、蛹になり、糞尿にまみれて過ごした地獄の時間を抜け出すと、彼は蝶になる。ここから話は始まる。だが、自由に飛ぶのではなく、工場に閉じ込められて、意味もなく監督官から打擲され、ボロボロになりながら、金属の蝶(それはただの模造品でしかない)を作る仕事に従事させられる。それぞれが自分一人で人工の蝶を作る作業を黙々とこなすだけの毎日。ここは蛹であるとき以上の地獄なのかもしれない。何の未来もなく毎日同じようにただただ働かされ、意味もなく暴力を振るわれる。
理不尽な暴力の温床であるここから抜け出すために道化を始めるのが第2章。そこにはささやかな希望が芽生える。だがやがて彼はそんな道化芝居にも飽きてくる。そんな時、彼の実績が認められて下の世界へと招待される。工場の町の下にある世界では、人工の安穏な世界が広がる。ここからが第3章。人々がふつうに暮らしている。そこで仕事を与えられて静かに暮らすことになる。普通ならこれで、「めでたし、めでたし」となるところだろう。もちろん、これはそんなお話ではない。やがて、この穏やかで安心な生活が彼を蝕んでいく。
地上がどうなっているのかとか、この地下世界は何なのかとか、一切の説明はない。ただ、彼の目の前に広がる現実があるだけだ。やがて、彼は道化をしていた頃が一番幸せだったということに気づく。人間にとっての幸せとは何なのか、とかいう教条的なお話ではないけど、再び蛹となり眠るラストは穏やかだ。それでよかったのか、と言われると素直には頷けないけど、そこにしか安らぎはないのなら仕方ないかもしれない。