『チャンソ』は『風の市』に続いて作られた2008年8月の作品だ。これで金哲義はその才能を開花させる。自伝的作品である。朝鮮高級学校を舞台にして、1989年から3年間の自身の高校生活をモデルにして描く。今回のチラシの写真が実にかっこいい。チラシにある「120秒の決戦」は初演時にも書かれてあったが、今回はよりシックで落ち着いたデザインの中で、小さく書かれてあるのがいい。近鉄、八戸ノ里駅。通過待ちのための普通電車の停車時間。その120秒。ホームでの喧嘩。ここをクライマックスにした。
だが、ドラマは、初演と違い、今回はなんだか、熱くはならない。とてもクールなのだ。それは、僕が2度目だから、話を充分知っているし、最初の強烈な印象があるから、あのインパクトには及ばない、と思ったからか。もちろん、そんな一面もあるだろう。だが、それだけではない。金哲義さん自身が客観的にこの作品を見ているからだ。初演の時にはそんな余裕はなかった。そこが、この作品の魅力だった。
大体そんなこと、見る前からわかった話だ。なのに、僕がもう一度この作品を見る意味はどこにあるのか、というと、この5年間で、金哲義さんがどれだけ変わったのかを確認するためだ。もちろん、初めての人は、存分に楽しめばいい。ちゃんと楽しめるように作られてある。テンポよく怒濤の学園生活が描かれる。
お話はこういう「学園もの」の定番を踏む。エンタテインメントとしても楽しめるように作られてある。笑えるし、泣ける。相変わらず野村侑志が凄い。学ランに身を包んだ錚々たる顔ぶれが、喧嘩に明け暮れる日々を描く。チョゴリの女の子たちは、可憐で、その中心にはカヤグムを弾くソナがいる。チャンソ(柴崎辰冶)の仲間との友情を喧嘩で描くこのドラマは、彼女への想いを横糸にして、自分たちの立ち位置の確認作業として完結する。
これは金哲義が越えなくてはならなかったハードルだった。これを超えたから彼の今がある。自由自在に描きたいものを描くために、1989年のあの時間を、この2時間20分の中に閉じ込める。これはノスタルジアなんかではない。戦いのドラマだ。どつきあい、血まみれになり、笑い合う。現実の彼の高校生活をドキュメントしたではない。もしかしたらこれは、イメージの中の「朝鮮高級学校」なのかも知れない。
だが、ここにあるリアルさは、あの頃の確かな現実なのだろう。本人の中にはもっと鬱屈したものもあるはずだ。だが、そこを敢えて封印して、こういう単純なドラマに昇華させた。今では過去の物語である。だが、ただの過去ではない。この時代を通過してこそ、「今」がある。
だが、ドラマは、初演と違い、今回はなんだか、熱くはならない。とてもクールなのだ。それは、僕が2度目だから、話を充分知っているし、最初の強烈な印象があるから、あのインパクトには及ばない、と思ったからか。もちろん、そんな一面もあるだろう。だが、それだけではない。金哲義さん自身が客観的にこの作品を見ているからだ。初演の時にはそんな余裕はなかった。そこが、この作品の魅力だった。
大体そんなこと、見る前からわかった話だ。なのに、僕がもう一度この作品を見る意味はどこにあるのか、というと、この5年間で、金哲義さんがどれだけ変わったのかを確認するためだ。もちろん、初めての人は、存分に楽しめばいい。ちゃんと楽しめるように作られてある。テンポよく怒濤の学園生活が描かれる。
お話はこういう「学園もの」の定番を踏む。エンタテインメントとしても楽しめるように作られてある。笑えるし、泣ける。相変わらず野村侑志が凄い。学ランに身を包んだ錚々たる顔ぶれが、喧嘩に明け暮れる日々を描く。チョゴリの女の子たちは、可憐で、その中心にはカヤグムを弾くソナがいる。チャンソ(柴崎辰冶)の仲間との友情を喧嘩で描くこのドラマは、彼女への想いを横糸にして、自分たちの立ち位置の確認作業として完結する。
これは金哲義が越えなくてはならなかったハードルだった。これを超えたから彼の今がある。自由自在に描きたいものを描くために、1989年のあの時間を、この2時間20分の中に閉じ込める。これはノスタルジアなんかではない。戦いのドラマだ。どつきあい、血まみれになり、笑い合う。現実の彼の高校生活をドキュメントしたではない。もしかしたらこれは、イメージの中の「朝鮮高級学校」なのかも知れない。
だが、ここにあるリアルさは、あの頃の確かな現実なのだろう。本人の中にはもっと鬱屈したものもあるはずだ。だが、そこを敢えて封印して、こういう単純なドラマに昇華させた。今では過去の物語である。だが、ただの過去ではない。この時代を通過してこそ、「今」がある。