先日の略称『民生ボーイと狂わせガール』を見た時もそうだったが今回も同じで、最近もう恋愛映画には全く食指をそそられなくなっている。そんな自分に驚く。(年は取りたくないなぁ、と改めて思った)しかも、今回はまたぞろ高校の先生と生徒のお話で、もうこのパターンは食傷気味だ。(自分が高校で働いているから、こういうのは見ていてなんだか恥ずかしい)
ただこれは、最近の定番であるマンガの映画化ではない。島本理生の小説が原作だ。荒唐無稽でメロメロの映画なんかにはならないはず。しかも、監督が行定勲である。彼が10年以上暖めていた企画がようやく実現した(ということらしい)。 と、いうことで、かなり期待して見た。
ここには18歳、20歳というふたつの時間が描かれる。そこでひとりの女の子の心の傷みと向き合う。受け止める側の30代の若い教師もまた、同じように心に傷みを抱えている。傷口を嘗め合うような痛ましいお話なのだが、そうはならない。お互いがお互いの想いを隠したまま接するからだ。
それにしても、こんなにもテンションの低い恋愛映画ってなかなかないだろう。台詞も少ないし、無音のシーンが長い。お話自身にはかなり無理があるけど、そこには目を瞑ろう。女子高生と教師の恋愛をリアルに描くと、嘘くさくしかならない。そこを上手く切り抜けるためにはかなり無理な設定が必要になろう。そうすると、この映画が描きたいものが、十分には描けなくなる。要はバランスの問題なのだ。行定勲は彼らの置かれた状況を正確に描くのではなく、彼らの想いを正確に描くことを旨とした。
18歳の彼女が、なぜ死にたいと思っていたのかには踏み込まない。あの頃の彼女と同じような状況にある少女が飛び降り自殺したお話を終盤に持ってきて、代弁する。ぎりぎりの状況にいた彼女を偶然彼が支えた。だから、彼女は死なないでいることが出来た。「好き、」という想いはとめられないけど、どうしようもないことがある。
卒業から2年後、文化祭のため招集された元演劇部員。たった3人しかいない高校生たちとともに一夏の時間を過ごす。毎週日曜日、高校に行き、芝居の稽古をする。好きだった先生から呼ばれて、もう一度彼と向き合うため。
冒頭の雨の夜のシーンが素晴らしい。今では映画の配給会社で働く有村架純が、オフィスの窓から外を見る。残業でひとりここにいる。物思いに耽る。彼女の中では今も時間は止まったままだ。それ以上のことは描かれないけど、雨の中、外から帰ってきた同僚(瀬戸康史)とのやりとりだけで、今の彼女の思いがちゃんと伝わってくる。そこから回想に入る。バラバラのいくつもの風景が彼女の心の声(ナレーション)とともにモンタージュされていく。タイトルである「ナラタージュ」というのは、そのナレーションとモンタージュを掛け合わせた造語らしい。(確かどっかに書いてあったような)
先日読んだ島本理生の新刊『わたしたちは銀のフォークと薬を手にして』もそうだったが、彼女の小説はストーリーではなく感情に寄り添う。この瞬間何を思い、何を感じたのかを、微妙な表情や仕草で見せる。映画にぴったりの素材なのだ。だから、こんなにも単純でどこにでもありそうな陳腐な話でも構わない。いや、そのほうが余計に際立つ。三角関係とか、お決まりの展開もちゃんと用意されてあるのに、それが嘘くさくはならない。
説明はいらないのだ。その瞬間の彼らの表情や姿がすべてを物語る。この静かな映画に耳を傾ける。そこから聞こえてくる想いを受け止める。それだけでいい。
なんと映像で、ビクトル・エリセ(『エルスール』)や成瀬巳喜男(『浮雲』)がそのまま出てくる。さらには台詞でトリュフォーの『隣の女』、ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』にも触れられる。引用される映画がそのまま、彼らの気持ちと通じている。もちろんそれは映画ファンに向けてのサービスなんかではない。それが彼らの想いの核心に触れるからだ。
このお話で2時間20分という上映時間は確かに長すぎる。だけど、この映画は敢えてこの長さを必要とした。ダラダラ見せるのではない。こんなお話なのに、ここまで長時間なのに緊張感を持続する。そこが行定監督のねらいだろう。どれだけ想いに寄り添うことが出来るのか。彼女の彼への想いが断ち切られるまでの長い軌跡が確かにここには綴られてある。