まるで夢の中にいるような気がした。噛み合わない会話がなぜかこんなにも心地よい。ひとりひとりがそれぞれの想いを抱えて生きている。(死んでいる)ここがどこで、あなたが誰で、自分がどこにいこうとしているのか、それすらわからない。でも、目の前にあなたがいて、話をしている。そして、山の向こうへと向かっていく。前作『ポラーノ 夜風に忘れて。』に続いて同じようなスタンスで今回は『雨月物語」に挑んだ。
突然歌いだしたり、いきなり誰かが現れたり、いなくなったり、生きているのか、死んでしまったのかもわからない。アオイツキに映っているのは何? ストーリーをたどっていくのは無意味だろう。そんなことより、この瞬間をそこに刻みこもうとする。いつものようにアツキイズムによる生演奏もそれを手伝う。
遠くにいるおばあちゃんは、母であるだけではなく、父でもある。だから坂上洋光が演じる。彼の優しいまなざしが旅する4人の女たちを包み込む。彼女が何を伝えようとしているのか、それがわかりそうでわからない。そんな微妙なところがいい。作り手のねらいでもある。もちろん作、演出は坂上である。
こういうファンタジーを作りたかったのか。津波によって、すべてを失ってしまった人たちの旅を通して、彼らがたどりつく場所にあるアオイツキを配して、その象徴するものを、感じる。それは現実でもあり、幻想でもある。人が生きて死んでいくのは定めだ。それが長いか、短いかもわからない。誰と出会い、誰と別れ、何をしたか、何ができなかったか。それも定かではない。
明確なストーリーを持たないこの芝居は頼りなく、たどたどしい。不明瞭だけど、そんなもどかしさがこの作品の身上だ。それでいいじゃないか、と思わせる。何かを伝えるためには、このくらいの曖昧さが時には必要だ。そのためにははっきりした歌が必要になる。音楽劇であることがこの作品の大事な力となる。役者たちの歌声には説得力がある。だから、芝居が生きる。彼女たちの自信に満ちた歌声と、おどおどした会話が、この旅の道しるべだ。たった75分の短い旅を終えた僕たちはとても幸せな顔をしていることだろう。僕はこういう芝居が一番芝居らしい芝居だと思う。