大林宣彦監督。70歳の最新作。大林さんはもう自由自在だ。70になり、でも瑞々しい映画を作る。それは若ぶるなんてことではない。それどころか依怙地になってるのではないかと思わせるくらいに自分スタイルに拘る。最近になって禁じていた「A MOVIE」を再開したことも、彼の中の何かが変化したからだろう。
もう少しで死んでしまうかもしれない。老いは誰にでもやってくる。たとえ大林さんであろうとも、である。80年代から90年代の係りにかけてほとんど寝る間も惜しんで怒涛のように映画を作り続けた。絶対に若死にすると思っていた。たのむから休んでくださいと願うくらいに誰が見ても凄まじいオーバーワークだった。あんなに映画を作り続けて本当に死んじゃうよ、と思って見ていた。だけれども大林さんは死ななかった。死なないで今も自分の映画しか撮らない。
『HOUSE』で劇場映画デビューしたときからずっと全ての作品を全部劇場で見てきた。そんな掃いて棄てるほどいるようなファンのひとりだ。もちろん『転校生』『時をかける少女』を見た後には、尾道を訪れた。映画のロケ地参りなんて普段はしない。でも大林さんは特別なのだ。
なぜかそんな昔話をここに書いてしまいたくなった。それくらいにこの映画は大林さんの趣味が溢れている。もちろん今はもう大林さんが死んじゃうなんて思わない。それどころか大林さんは永遠に死なないと思うくらいだ。
そんな彼が新人作家になった気分でこの新作に挑んだ。重松清の同名小説の映画化である。短編連作であるこの作品を、そのすべてのエピソードを網羅して見せる。だがこれはオムニバスではない。長編映画である。あと少しで死んでいく妻(永作博美)との最期の時間を過ごす夫(南原清隆)の心情をいくつもの周囲の人々のエピソードを絡めて描く。人が生き、そして死んでいくことが、大林さんの温かい視線から捉えられていく。それは魔法のようだ。かっての大林マジックが甦る。すべての場面が加工され、現実の風景ではないものにされる。彼の目を通して捉えられた風景は夢のようなものになる。とても懐かしい。幼い日に見た幻。それが再現される。でもそんな記憶はどこにもない。きっと夢で見た風景なのだろう。
夫婦は2人が結婚した当時住んでいた町を18年振りに訪れる。懐かしいはずの風景は様変わりしてあの頃を思い出させるものはない。駅前のロータリーも、真新しいものになり、商店街はシャッタ-通りとなっている。昔日の面影はどこにもない。だが、そんな風景を歩く2人にいつのまにか、過去の記憶を呼び覚ます幻が見えてくる。
かって住んだアパートが今も当時のまま残っている。彼女は自分たちが暮らした部屋に今住む住人に手紙を書く。様々なエピソードがその小さな旅行を彩る。
宮沢賢治の『永訣の朝』がメロディーに乗って全編を彩る。クラムボンという女性が歌う。この詩の内容がこの映画の基調低音となる。大切な人が死んでいくことをしっかり受け止める。賢治にとっての妹のとし子、そんな存在がこの映画の主人公と妻であり、みんなそれぞれ愛おしい人を持っている。そんな人の営みを最大限の優しさをもって描いていく。全く同じストーリーなのに、印象は重松清の原作とはまるで違う。やっぱりこれは大林さんの映画としか言いようがない。
もう少しで死んでしまうかもしれない。老いは誰にでもやってくる。たとえ大林さんであろうとも、である。80年代から90年代の係りにかけてほとんど寝る間も惜しんで怒涛のように映画を作り続けた。絶対に若死にすると思っていた。たのむから休んでくださいと願うくらいに誰が見ても凄まじいオーバーワークだった。あんなに映画を作り続けて本当に死んじゃうよ、と思って見ていた。だけれども大林さんは死ななかった。死なないで今も自分の映画しか撮らない。
『HOUSE』で劇場映画デビューしたときからずっと全ての作品を全部劇場で見てきた。そんな掃いて棄てるほどいるようなファンのひとりだ。もちろん『転校生』『時をかける少女』を見た後には、尾道を訪れた。映画のロケ地参りなんて普段はしない。でも大林さんは特別なのだ。
なぜかそんな昔話をここに書いてしまいたくなった。それくらいにこの映画は大林さんの趣味が溢れている。もちろん今はもう大林さんが死んじゃうなんて思わない。それどころか大林さんは永遠に死なないと思うくらいだ。
そんな彼が新人作家になった気分でこの新作に挑んだ。重松清の同名小説の映画化である。短編連作であるこの作品を、そのすべてのエピソードを網羅して見せる。だがこれはオムニバスではない。長編映画である。あと少しで死んでいく妻(永作博美)との最期の時間を過ごす夫(南原清隆)の心情をいくつもの周囲の人々のエピソードを絡めて描く。人が生き、そして死んでいくことが、大林さんの温かい視線から捉えられていく。それは魔法のようだ。かっての大林マジックが甦る。すべての場面が加工され、現実の風景ではないものにされる。彼の目を通して捉えられた風景は夢のようなものになる。とても懐かしい。幼い日に見た幻。それが再現される。でもそんな記憶はどこにもない。きっと夢で見た風景なのだろう。
夫婦は2人が結婚した当時住んでいた町を18年振りに訪れる。懐かしいはずの風景は様変わりしてあの頃を思い出させるものはない。駅前のロータリーも、真新しいものになり、商店街はシャッタ-通りとなっている。昔日の面影はどこにもない。だが、そんな風景を歩く2人にいつのまにか、過去の記憶を呼び覚ます幻が見えてくる。
かって住んだアパートが今も当時のまま残っている。彼女は自分たちが暮らした部屋に今住む住人に手紙を書く。様々なエピソードがその小さな旅行を彩る。
宮沢賢治の『永訣の朝』がメロディーに乗って全編を彩る。クラムボンという女性が歌う。この詩の内容がこの映画の基調低音となる。大切な人が死んでいくことをしっかり受け止める。賢治にとっての妹のとし子、そんな存在がこの映画の主人公と妻であり、みんなそれぞれ愛おしい人を持っている。そんな人の営みを最大限の優しさをもって描いていく。全く同じストーリーなのに、印象は重松清の原作とはまるで違う。やっぱりこれは大林さんの映画としか言いようがない。
あそこまで宮沢賢治の世界にするとは驚きました。
「永訣の朝」の歌、今でも心に残っています。
>賢治にとっての妹のとし子、そんな存在がこの映画の主人公と妻であり、みんなそれぞれ愛おしい人を持っている。そんな人の営みを最大限の優しさをもって描いていく。
深く同意します。
隅々まで、大林監督の優しさが滲み出ていました。
TBさせて頂きますね。