これはまるで思いもしなかった映画だ。先日見た中国映画の傑作『小さき麦の花』のような温かい映画だと勝手に思っていた。要するに中国版『スタンドバイミー』のような甘い映画を期待したのだ。確かチラシの裏にもそんなことが書いてあったし。だけど、まさかの映画で、驚いた。(確かにチラシにはカフカの『城』とかも、書いてあったんだけど。)不条理劇とかいうわけではない。ノスタルジックで懐古的な映画でもない。もちろんそんなふうにも見える要素はある。
ある地方都市に地質調査で訪れた男たち。彼らの仕事ぶりが描かれる。ここは地盤沈下が進み、廃墟と化した街だ。主人公のハオは廃校になった小学校で誰かの(それはハオ自身のものかも知れない)日記を見つける。そこに書かれてあったかつてのこの街の風景。開発が進み、生き生きとしていたあの頃の記憶。そこで生きていた子どもたちの姿。この過去のシーンが素晴らしい。
映画は現在と過去が交錯する。というか同居するのだが、ふたつは相容れない。まるで別の映画にように存在する。青年ハオと少年ハオは同一人物ではなく、別人。少年時代のエピソードは日記の中の出来事が描かれるだけ。燻んだ今、キラキラした昔。それが対比して描かれるのではなく、まるで別物の映画が同居しているようだ。今僕たちは何を見ているのだろうか、それすら曖昧なまま、ただスクリーンを見つめる。主人公たちが居眠りをするシーンかたくさんあって、同じように僕まで居眠りしてしまった。だから、ますます映画がわからなくなっていく。もともとよくわからない映画なのに。
子どもたちが遊ぶシーンが延々と続く。それを見ているだけで幸せな気分になる。ある日の学校からの帰り道、子どもたちが順次それぞれの家に到着して別れていく描写が丁寧に描かれる。その都度、ハグして別れていく。なんだが大仰だけど、最後にひとりになってしまうシーンが切ない。そして学校に来なくなった男の子のエピソードに繋がっていく。幸福な描写に不安が重なり、子どもたちは消えていく。
ラストシーンも象徴的だ。メインタイトルが出て、そこで終わったかと思った後、森にやって来たふたりのシーンが始まる。彼らは幻の青い鳥を探しているようだ。見つからない。また、居眠りをする。(僕が、ではなくそのふたりが、です)
監督は「中国第8世代の新たなる才能」と紹介されるチン・ション。独自の感性で映画をドライブする。確かにビー・ガンやフー・ボーと似ている。重くて暗い。厭世的な描写は未来をまるで信じないよう。ここは確かに現実世界であるのに、迷路に入ってしまい、迷走して、迷子になっていく。未来は見えない。