初めて見る人は驚くはずだ。だってこの芝居には舞台がない。客席の2列目までには人がいない。そこに旅行鞄を抱えた女がやってくる。座席指定のAー5の席に座る。最前列の中央だ。明らかに彼女はこの芝居のキャストだということはわかる。そして、客席2列目の上手側出入り口付近で様子をうかがっている男。やがて彼が彼女の元へと近づくことで芝居は本格的に始まる。
3列目の客席最前列中央で芝居を観た。始まる直前振り向いて客席を見渡すと、ほぼ満席だ。それだけに全く人がいない最前列である2列の空洞が対照的で面白い。2列目と3列目の間には段差がある。明らかにそこが境界線になる。だが、1列目の目の前には幕が開かないままの舞台があるはずだ。暗幕の向こうには確実に芝居が隠されている。なのに、開演時間になっても、幕は開かない。だからA-5の女は抗議する。芝居はもう始まる時間だと。僕たちはこの境界線のふたりを見守る。そこにはきっと幻の『だから君はここにいるのか』(客席編)という芝居があると信じるからだ。いや、誰も信じてはいないか。舞台と客席の間、ここで芝居が始まっている。明らかにこの客席で芝居はもう始まっている。
ここで演じられるはずの芝居、その唯一の観客である女とこの芝居のキャストである男。「三日月を背にする男」(これが彼の役名)はたぶんこの芝居の主人公だ。初演を見ている彼女は覚えている。彼女はこの芝居を以前に見ている。そしてまた今回の再演を見に来た。それくらい芝居好きなのか、というとそうではない。彼女はまだ人生で1度しか芝居を見たことがない。もちろんその芝居はこの芝居なのだ。そして人生2度目の芝居を今見ようとしている。その芝居はいつまでたっても始まらない。初演の結末に納得しない登場人物である彼は違う芝居となる再演を見せたい。でも、彼女は同じ芝居を観たいと望む。
この芝居はそんなふたりの会話劇だ。1時間ただただふたりがお互いの想いをぶつけ合うだけ。それを僕たち観客は見守るだけ。そして本来の芝居は始まらない。芝居を待ち続ける時間が芝居となる。演じるのはひとりの観客と舞台ではなく客席にいる素顔の役者。このなんとも不条理な芝居はそんな不思議をなんでもないものとしてさらりと見せてくれる。
昨年6月上演された『だから君はここにいるのか』(舞台編)の姉妹編である。前回はもちろん舞台上で演じられた。でも、演じられたのは芝居自身ではない。芝居が始まる前の時間だ。まだ芝居は始まらないままその芝居は終わる。舞台上にはセットもない。そこにやってきた観客と演出家のやり取りが描かれる。
この2本の芝居はセットになっていて、2本で完結する。でも、それを完結と呼んでいいのかははなはだ疑問だ。だってこの2本の間には本来あるはずだった芝居はないからだ。僕たちが見るはずだった劇の不在。その不在を明らかにするこの2本の芝居の存在。それを今回、客席だけど客席ではない舞台となる客席で演じる二人の役者の芝居として見守る。境界線上の芝居は、本来あるはずもない芝居だ。それを目撃した僕たちはその芝居の無内容に唖然とする。これは芝居ではない。芝居を巡る会話なのだ。しかもここの存在するはずの、でも不在なままの芝居はどこにあるか。こんな不条理を楽しむのではなくいぶかしむ。いったいこれは何なんだろうか、と。そしてこれはその何なんだろうか、という芝居なのだと気づく。
そして終盤、客席だった2列を男が撤去していく。そこには何もない空間が生まれる。女はそこにいる。そこは彼女のための舞台なのか。いや、そうではない。あくまでも彼女は役者ではなく観客なのだ。そして観客という役を演じる役者でもある。なんだか書いていて面倒くさくなる。僕は何を言いたくてこれを書いているのだろうかと、思う。そしてそう思わせることこそがこの芝居の作、演出の久野那美さんの企みなのだ。
久野さんの仕掛ける演劇を巡る不思議な会話劇は、お芝居って何なのかと考えさせる。そして、そんなことを考えさせるこの芝居はとても面白い。芝居と客席のはざまに存在するもの。それを芝居として立ち上げていく。さぁ、ラストで舞台の幕が開く。そこには何があるのか。それを自分の目で目撃しよう。(だから、それをここには書かない。でも、それは決して大それたものではないけど、でも納得のいく舞台がそこには広がる。)
ここからは余談だが、当日パンフにはこの芝居のチラシが挟み込まれてある。「この芝居」というのは『だから君はここにいるのか』(客席編)ではない。A-5の女が見に行った幻の芝居である。タイトルは『沈黙の森(再演)』という。なんと「前に見た人は無料」とある。日時は1月の13日から15日。場所はここE9だ。そしてその日時はもちろん今この瞬間。もう終わっている。