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映画・演劇のレビュー

ニュートラル『宇宙を隠し持っている』

2008-01-28 23:27:41 | 演劇
 
 22世紀。人類は地球を離れスペースコロニーで生活している。そんな設定のニュートラルの芝居を見ることになるなんて驚きだ。

 だが、それ以上に驚いたのは、これが「スペースゼロの思い出」に関するお芝居だったことだ。当日パンフや、塚本さんのブログで明記されているから、覚悟を決めて見たが、こんなにもはっきり、ここには古賀先生とスペースゼロへのオマージュが描かれている。しかし、それはわかる人にしかわからないし、知らないと気にもならない。実にさりげない。テーマ自体はある種の普遍性があるから、単なる一部の人間に向けての感傷的な話にはなってない。それは、当然のことだろう。大沢さんがそんなマニアックな芝居を作るわけがない。

 どこから書いたらいいのか分からないが、とりあえずストーリーを追いながら思いつくまま書いてみよう。

 22世紀の未来から、20世紀後半の日本にあった懐かしい空間を思い出す。コロニーの中に故意に作られた貧乏臭い四畳半仕立ての部屋でひとり暮らしする女性(服部まひろ)を主人公にして、彼女がここで夢を見る姿が描かれていく。

 かって地球にあった四畳半一間の部屋を忠実に再現したこの空間(この舞台美術が素晴らしい。シンプルなのに安易ではなく、とても丁寧に考えられて作られたセットである。贅沢ではないが細部まで目が行き届いている。引き出しから出てくるクラッシックな箱型のTVもいい。)は、見たこともない世界なのになぜか、ここに足を踏み入れたなら懐かしい。22世紀を生きる人間にとってこの場所は記憶の片隅にすらない風景のはずだ。だいたいそんなクラシックな部屋を誰がここに作ったのか。

 この部屋の秘密を探るために3人の研究者たち(高瀬和彦、魔人ハンターミツルギ、上原日呂)がやって来る。この3人が、とんでもなく胡散臭いのがいい。彼らがこの部屋で大騒ぎしていくのを彼女は見守るしかない。そのあまりのしっちゃかめっちゃかぶりに、「大丈夫か、この芝居」と思わず呟いてしまいそうになる。まぁ、もちろんそんなことは計算の上である。

 このバカ騒ぎが限界点を超える直前にエリカさま(新良エツ子)が押入れの中から現れる。(確か彼女の役名はエリカさまだった、と思うが)ここからさらに芝居はもうワンランク、さらにテンションが上がる。さっきまでの大騒ぎはただの序の口でしかなかったのだ。エリカさまは歌って踊ってアニメ声で語りかける。これってきっと何かの間違いだと思う。「こんなのはニュートラルの芝居ではない」と叫びたくなるくらいの壊れ方である。

 もちろんアドリブも含めて即興的に見える部分も融通が利くように考えてあるから大丈夫だ。下品な芝居を大沢さんが作りはしない。

 季節を失った人々のために、もう一度四季の記憶を甦らせるシーンがいい。エリカは3人の博士たちが作ったアンドロイドで、彼女には彼らの夢が投影されている。彼女と騒ぐこのおバカな博士たちの姿を描く前半のテンションの高さを受けて、後半、徐々にしっとりしたドラマに移っていく。そのへんのバランス感覚は絶妙である。

 後半は、この部屋を作ったサワダという男の話になる。かってサワダという男のサロンにみんなが巻き込まれていった頃があった。そこでは、みんなが自由自在に振舞いながら、それぞれの夢を語り、育んでいく。ここに来れば、いつでも誰かが居て、いろんな人たちと出会えれる。ここではみんなが好きなことを思いっきり語り、自分の夢を実現していく。

 彼は、そんな「宇宙村」を作ろうとした。そして、失敗して全てを失った。「宇宙」と言う冠をつけたならなんでも許される気がした。そんな頃。いつまでもあの頃の夢を追いかけ続けること。

 かって14歳の少女だった主人公が、彼と出会い、彼の部屋に入り浸り彼のかつての夢の話を聞く。サワダの話に出てくる人たちが大好きだった、と彼女は言う。

 見たこともないのに、なぜか懐かしい20世紀後半の日本の住宅にあったチープな部屋が記憶の奥底に潜む生まれるずっと以前の記憶を刺激する。

 はたしてここは22世紀の遠い未来の風景なのかどうかさえ、定かではない。彼女の中にあるサワダという男の記憶。このドラマの核心にある彼の思い出はいったい、いつ、どこで見たものなのか。

 実はそんなことどうでもいい。プラネタリウムで、宇宙を見ながら時を過ごす少女がこの男と出会い、彼の部屋でいろんな思い出話を聞く。それが彼女の原風景となって、心の中にしっかりと沁み込んでいく。それは彼女の実体験では当然ない。サワダの語った昔話でしかないはずなのに、とても懐かしい風景として彼女の中に記憶されていく。みんなが自由に自分たちの夢を語り合い、実現しようとしていた時代の物語。そんな頃へのオマージュである。(「スペースゼロ」という「何もない宇宙」の中で見た夢。)

 かってあった心地よい場所が、いつの日にか失われていく。夢の残り香をかぎながら、窓の外を見つめるラストが美しい。こたつの上には最初のシーンと同じようにひとつのみかんが置かれてある。象徴としては、あまりに平凡で、ささやかだけど、だからこそ、この空間にぴったりである。失われてしまったものを懐かしく思う。かってあった自由に生きていた時代。あの頃から遠く離れて、今ここにひとり生きている。そのことを哀しく思うのではない。すべては彼女の見た夢でしかないのかもしれない。


 初めてSFというスタイルを使った大沢秋生さんのこの新作は、今までのニュートラルとは全く違う新しい方向性を示す。ちょっととまどいも感じたが、でも、この冒険は今の大沢さんにはとても心地よかったことであろう。

 ただ、芝居としては実はかなり欠陥が目立つ。前半と後半が上手くつながらない。特にサワダの話は唐突過ぎる。見たこともない100年以上前が懐かしいなんて、なぜなのか。そのへんの説明もない。この部屋の秘密に関しても、なんだかはぐらかされた気になる。全体の整合性が充分ではないのだ。だが、それでも心情的にはわかるから、気にしないで見れることも事実だ。

 実は、服部まひろさん演じる女がどういう人で、彼女が、今ここで何を考え生きているのかも描かれてない。幼い彼女とサワダとの関係が壊れていく過程ももう少し書き込んで欲しかった。さらには富永茜さん演じる友だち(マイクを通してしか人と会話が出来なくなった女)との関係も曖昧なまま終わっている。現実が唐突に入り夢と境界線がない。そんな世界を描きたかったのだろうか。それも定かではない。

 


 追記

 あの頃、僕たちは毎週末、スペースゼロで過ごした。そこで上演されるすべての芝居を毎週、毎週1本も欠かすことなく見続けた。芝居を見るため、というより、古賀さんに会いに行ったというほうが正確だろう。そのついでに芝居を見た、という感じだ。芝居の後は、作者たちと終電が来るまで話した。古賀さんはいつも徹底的に話した。つまらない作品が、たくさんあったけど、みんな一生懸命で、だから僕たちは、とことんその芝居のことを語り合った。「明日までに、直せること」というのが古賀さんの口癖だった。まだまだこの芝居はよくなるから、明日の楽日には今日以上に、いい舞台をお客さんに提示できるように、というのが古賀さんの願いで、細かい点まで時間をかけて駄目出しする。もちろん山のようにお酒を飲みながらである。飲んで、食べて、喋る。その原始的な行為がとんでもなく楽しかった。ゼロのことを話していると、話は尽きない。あんな幸せな時間はなかったから。
 

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