カラ/フルの新作は3話からなる短編集だ。僕はオダくんの長編が見たいと思っていたので、以前会った時に「どうして長編じゃないの?」なんて言ってしまったけど、本作を見て、彼の短編は実にうまいんだ、と改めて思い出した。ただ前作『海のホタル』を見てこういう人間ドラマを見事に裁けるのか、と感心した後だったから、それをオリジナルで見せて欲しいと思ったのだけど。
今回の短編集の魅力は「詰めの甘さと歪さ」である。「えっ?」と言われるかもしれないが本来欠陥になるその2点がなかなかのものなのだ。それが彼の持ち味にすらなっている気がした。二人芝居が3本続く。いずれも男女のドラマだ。
『燻る』は夫婦の会話劇。近所の知り合いの家が火事になり、奥さんが死んだ。その事実に狼狽える夫と平然と受け止める妻。ふたりの秘密が明らかになる。よくある不倫劇かと思わせて、実はそうじゃない。夫の不審な行動の謎が明らかになる。死んだ近所の奥さんの秘密に対する夫の行動。それを疑う妻の行動。だが、いずれもなんだか、おかしい。特に夫が有休を取得してまで奥さんのところに行くというお話のきっかけとなる部分に説得力がないな、と見た時は思った。だが、そこがこの芝居の気味の悪さかもしれない。妻が昼間にその奥さんの家に入る自分の夫を目撃するのも偶然としては都合がよすぎる。「詰めの甘さと歪さ」である。お互いに和解に至るのだが、そんな簡単なオチでいいのか、とも思う。ふつうなら作りが甘いな、とそこは減点対象だ。だか、放火犯は誰なのか、という犯人捜しではなく、誰もが挙動不審な行動を取るという不気味さが前面に出る。さらにはラストの玄関から聞こえるチャイムの音。誰がここを訪れたかは明かされない。何が起こるのかも。いや、何も起きないのだろう。なのにそのベルの音に怯える。(20分)
2話は『おっぱい』を巡る恋人同士の会話劇。デート中に白昼街中で「おっぱいを揉ませろ!」と迫る男。ほとんどそれは異常者だ。いくら恋人でもありえない。「人のいないところならいいけど、ここではいや」と女は言う。正常な反応だ。このありえないやり取りを真面目に見せていく。15分ほどの短編だ。あっけらかんとした気味の悪さ。さらにはこの後の『おしり』は女同士の会話劇。職場で並んで仕事をするのだが、なぜかおしりがすうすうしてパンツを履いていないような気がするという女とそれを聞いている女のやりとり。オチはあまりにたわいない。たわいなさすぎてこれでいいのかと思う。つまらない、のではなく落ち着かなくなるのだ。何かもっとあるのではないかと勘繰る。何もないのに。これもまたそんなところが気味が悪い。だいたいこの2つの話を並べてチラシでは『おっぱい/おしり』と1本のように表記されてある。でも、2本はちゃんと独立した短編なのに。同じような身体を扱う連作だから、という括りなのだろうが、これもまたなんだか気味の悪さを露呈する。(2本で30分)
そして3話目は『行きずりの傘』。雨降る中、ふたりの男女の会話劇。男の傘の中に傘を持たない女が勝手に入ってくる。ここで恋人を待つ男は「困ります、」と女を拒否するのだが、女は譲らない。たわいもないコメディにしかならないような設定だ。だが、笑わせない。女は自分の傘ではないのに頑なで、男は困惑するが彼もまた頑な。この話はお約束だと思ったのに2人芝居ではなく、後半から男の恋人や女の弟が登場する。ほかの2作より上演時間も長い。(35分)
わざわざ上演時間を記載したのは、各エピソードが明らかに均等な尺ではないな、と感じたからだ。もちろん見ながら時計を見たわけではない。終演後オダくんに聞いたら教えてくれたので知ったことだ。なんとなく全体のバランスが悪い。ぎくしゃくしている。そんな気がした。そしてそこもまた、欠陥ではなく、この作品の持ち味になっている気がした。さりげなくとても丁寧に不気味さを演出している気すらした。そんなところもまた「君と僕の間にあるケモノ」というタイトルの中にある不穏さを象徴する。この4話からなる短編集は最初に書いたように故意に、さりげなく「詰めの甘さと歪さ」を露呈する。そこがオダ作品の魅力だ。
安心させないが、必要以上に不安にもしない。この感触は前作『海のホタル』と似ている。彼は今年この作品の後、再び大竹野作品『夜、ナク、鳥』に挑む。これもまた大竹野作品としては異色の女性が主人公になる作品だ。大竹野には女性が主人公の作品はたった2作品しかないのだが、それを2本目として取り上げる。オダ演出でよみがえる『夜、ナク、鳥』は今まで見た他のどの『夜、ナク、鳥』とも似ていない新しい『夜、ナク、鳥』となることは確実だ。