とてもつらい映画だ。こういう現実から目を背けたい。これが90年代の前半という時代の空気を再現しているとは思わない。あの頃だって楽しいことはあったはずだ。というか、あまり覚えていない。目の前の自分の毎日しか見ていなかったから、バブルの頃だって、まるで印象に残っていないのだから、さもありなんであろう。嫌な時代の気分を描いているというよりも、嫌なものを見せられた、という気分だ。しかし、彼らの閉塞感と寄り添いながら、2時間、不快ではない。誰もが抱える痛みと真正面から向き合うことは映画ならできる。客観的に出来事を見守るのではなく、彼らと一緒にその地獄巡りを体感することになる。出口のない迷宮に迷い込み、もがき苦しみ、抜け出すまでの2時間だ。
そこにいられなくなって、主人公は引っ越すことになるのだが、そういう消極的な終わり方しかできるはずもない。圧倒的な暴力の前で、無抵抗のまま、受け止めるしかない。抵抗するのではなく嵐が過ぎ去るのを待つ。無抵抗主義ではない。暴力に反対しての抗議でもない。殴られる側よりも殴る側のほうが痛ましく見える。殴られる側の味方になり助ける主人公は、助けているはずなのに、助けられることになる。いじめを描く映画ではないことはこの図式からも明白だろう。
河原にうち棄てられたまま白骨化した死体を見る。それは彼らだけの秘密だ。主人公はその「彼ら」の仲間入りすることで、どんどん地獄へと足を踏み入れていくことになる。放置されたまま、誰にも知られず白骨化するなんて今の日本ではありえないとか、そんなつまらないことには一切関知しない。僕たちが知らないだけで、この世界では思いもしないことがいくらでも進行している。これはそのささいな一コマでしかない。
彼らが抱える問題の一つ一つも同じだ。校内で起きている暴力はみんな知っているけど、だれもなにもしない。摂食障害の女の子はひたすら食べてすべて吐き出す。彼女のそんな行為を知る者はいない。目に見えていることすら見ないのだから水面下で起きていることなんか知るわけもないのだ。だから、そんなふたりは河原のセイタカアワダチソウに埋もれた死体を見ることで心が落ち着く。彼らだけの秘密だった。
セックスと暴力、薬におぼれ、ずるずるいつまでも続く迷路の中で暮らす。高校生活は3年間で終わるのだろうが、この地獄の日々は永遠に続くように思える。だが観客である僕らがそこから目を背けようとは思えないのは、この映画の冷静さのせいだ。生々しいのに、まるで同じ場所にいるように思わせるにも関わらず、距離感を感じる。他人ごとではなく、自分たちにもこんなことがあった、と思わせる。過去形で。25年前、という微妙な隔たりは僕のような年代の人間だから感じる者なのか。同世代がこの映画を見たならきっとすごい拒絶間を抱くのではないか。
ドキュメンタリーのように主人公たちにインタビューするシーンが随所でいきなりインサートされる。結果的に、感情移入させない仕掛けでもある。役者たちは自分の素で、役の気持ちを告白する。行定勲監督自身が彼らにインタビューしていたのではないか。(声が彼の声だった)映画は、そんなふうにして平気でストーリーの進行を妨げる。今時スタンダードサイズの映画を敢えて作るというのも意図的な行為だろう。
誰に向けて、誰のために作った映画なのか、よくわからない映画だ。今を生きる10代にはアピールしない映画だろう。だが、誰にとっても、共通する何かが、確かにここにはある。スクリーンから目が離せない。こんなにも嫌な映画なのに。