障害を持つ少年が父親とともに、トライアスロンの最難関であるアイアンマンレースに挑む姿を描く。ちゃんとサブタイトルには「夢に挑んだ父と子」とある。こういうわかりやすいおせっかいがうざったいけど、映画会社も商売なので仕方ない。だいたいタイトル自身が、原題とはまるで違うはずだ。フランス映画だし、こういうベタなタイトルはない。
自分の力では歩けない。車椅子生活を余儀なくされる彼が、昔、父がトライアスロンをしていたことを知り、自分もそれに挑戦したいと思う。そんなあり得ない無謀を父は当然拒否する。
もともと二人の関係はよくなかった。仕事を失い、自信もなくしている彼は、障害者である息子と上手く付き合うことができない。
映画はそんな親子関係を中心に据える。しかし、そこにトライアスロンという異物を混入することで、単純な親子の絆を描く臭いヒューマンドラマにはならない。お決まりの感動の押し売りから距離を置く。監督のニルス・ダヴェルニエはドキュメンタリー出身で、劇映画は初めてらしい。あっさりとお決まりの感動の展開を手放す。2人がトライアスロンとどう向き合ったのかが、ドキュメンタリータッチで描かれ始めたところから、映画は精彩を放つことになる。圧巻はレースのシーンだ。そこでも淡々としたタッチは手離さない。
90分という上映時間が意味するものは、ドラマチックな展開を避け、事実の客観的な描写に終始するという覚悟だ。思い入れがないわけではない。だが、ここで必要なことは、事実の重みである。主人公の2人に課せられたのは、実際にトライアスロンに挑戦することだ。(それは演じる役者たちにも言える)
介護しながら、泳ぐ、自転車を漕ぐ、走る。ただ一緒にいるだけではない。自分もまた戦う。でも、彼の存在自身が父親にとっては負担になることは明白だ。ひとりででも過酷なレースに体が不自由な息子とともに出場する。とんでもないリスクだ。しかし、そうじゃない。ふたりで戦うことで得られるものがある。この映画はその事実を見せることが目的だ。
勝つことではない。完走することでもない。レースに出て、戦うことだ。スポーツの醍醐味はそこに尽きる。この映画はそういう普遍に挑んでいる。特別なケースを普遍に変える力がここにはある。
自分の力では歩けない。車椅子生活を余儀なくされる彼が、昔、父がトライアスロンをしていたことを知り、自分もそれに挑戦したいと思う。そんなあり得ない無謀を父は当然拒否する。
もともと二人の関係はよくなかった。仕事を失い、自信もなくしている彼は、障害者である息子と上手く付き合うことができない。
映画はそんな親子関係を中心に据える。しかし、そこにトライアスロンという異物を混入することで、単純な親子の絆を描く臭いヒューマンドラマにはならない。お決まりの感動の押し売りから距離を置く。監督のニルス・ダヴェルニエはドキュメンタリー出身で、劇映画は初めてらしい。あっさりとお決まりの感動の展開を手放す。2人がトライアスロンとどう向き合ったのかが、ドキュメンタリータッチで描かれ始めたところから、映画は精彩を放つことになる。圧巻はレースのシーンだ。そこでも淡々としたタッチは手離さない。
90分という上映時間が意味するものは、ドラマチックな展開を避け、事実の客観的な描写に終始するという覚悟だ。思い入れがないわけではない。だが、ここで必要なことは、事実の重みである。主人公の2人に課せられたのは、実際にトライアスロンに挑戦することだ。(それは演じる役者たちにも言える)
介護しながら、泳ぐ、自転車を漕ぐ、走る。ただ一緒にいるだけではない。自分もまた戦う。でも、彼の存在自身が父親にとっては負担になることは明白だ。ひとりででも過酷なレースに体が不自由な息子とともに出場する。とんでもないリスクだ。しかし、そうじゃない。ふたりで戦うことで得られるものがある。この映画はその事実を見せることが目的だ。
勝つことではない。完走することでもない。レースに出て、戦うことだ。スポーツの醍醐味はそこに尽きる。この映画はそういう普遍に挑んでいる。特別なケースを普遍に変える力がここにはある。