この手の企画は、ほとんど失敗する。企画自体が魅力的であればあるほど、失敗する頻度は高くなる。全く違う個性がぶつかりあい、うまく化学変化を起こし、思いがけないものを示す、なんていう都合にいいことは、なかなか起きない。お互いに遠慮して、当たり障りのないところで、折り合いをつけたり、なぁなぁになって普段の力を発揮できないまま不完全燃焼となったり、どう転んでもろくでもないことが、待ち受けている場合が多い。
だが、今回は少し違う。決して成功とは言わない。だが、いい意味で芝居自体も「大炎上」を起こしている。この芝居の不自然な世界は充分魅力的だ。
あまりに個性の違いすぎる3集団が、なんとなく集められて、とても大きなプロジェクトを立ち上げる。共犯企画なんていうまがまがしい集団名が、すばらしい。ストレート過ぎて、何ともいえない。そして、タイトルも『大炎上』である。インパクト強すぎる。もちろん、そのへんが今回の売りであろう。彼らの不良性感度の高さを前面に押し出して、とてつもない悪夢を見せてくれることを期待させる。宣伝の戦略は、見事としか、言いようがない。A3サイズの大型チラシも、そうだし、あの黒い羊の異様さ。裏面の大文字によるコピーと、グランドを横並びになってダラダラと歩いている3集団のメンバーたちの姿を撮った写真を中心としたデザイン。このフライヤーは秀逸である。これだけは絶対に見たい、と思わせる要素は十二分に整った。
2時間15分の大作である。この企画とこの上演時間はとてもぴったりと合っている。それだけのボリュームがなくては、観客の方も満足するまい。カラフルな舞台美術と、思い切った衣装。そして、ドラマをストーリーで押し進めようとはしない演出。意外性を狙ったのではなく、これは悪い芝居の山崎彬さんのいつものスタイルなのだろう。(僕は悪い芝居を見たことがないから、間違っていたらごめんなさい)台本は尼崎ロマンポルノの橋本匡さん。とても彼らしい題材だ。いつものように繊細で、そのくせ大胆な設定を力で捩じ伏せるような芝居を書く。この台本を彼自身が演出したなら、さぞかし重くて暗いタッチのものになっただろう。母親の中に生じた迷宮の中に周囲の人たちが取り込まれていき、気付くと実体のない悪意が世界を覆い尽くしていく。事故、事件、犯罪、テロ、戦争。どんどん肥大化していく状況を丁寧に見せていき、我々観客を恐怖の中に叩き落していく。
だが、今回は全くベクトルの違う山崎演出である。山崎さんのアプローチは小から大へと変貌していく状況を理詰めで見せようとはしない。あくまでもまず、感覚的に捉えていこうとする。明るくポップな色彩を配して、狂気を理屈ではなく、あからさまな現象として表現していく。
何が起こっているのかが、ストレートには伝わってこない。役者たちの個性を殺してしまって記号のように見せていく。人と人との関係がドラマを動かしていくのではなく、ある現象の全体像を見せていくことを旨としている。しかも、シリアスになるところを、遊びのように見せていくので、どこまでが本気で、どこからが冗談なのか明確にはならない。まるで、すべてが冗談であるかのように話が進んでいく。内側から世界を抉ろうとする、橋本さんとは反対に外側から世界を軽くなでるようにして、事件や事象を抉り取ろうとする。この両者のアプローチの違いが、結果的に完成した作品のバランスを著しく欠く結果に繫がる。
求心的な芝居にはならず、状況論に終始するから、ドラマにのめり込めない。このなんとも居心地の悪い芝居は、それでもなんとかギリギリのところで危ういバランスを保つ。それは両者の妥協ではない。それどころか、譲らない姿勢が最終的にこの芝居を作り上げた。このまるで失敗作と受け止められかねない作品が目指した帰着点は何なのか。敢えて訳の分からないこの混沌とした世界の中で、ひとつの方向を目指そうとした主人公たちの(それは作者たちでもある)気分がここには描かれてある。「家族とはいったい何であったのか」という答えは当然ここからは出て来ない。だが、よくわからない不気味さが、最後まで持続する。それだけでも、僕は満足だ。
だが、今回は少し違う。決して成功とは言わない。だが、いい意味で芝居自体も「大炎上」を起こしている。この芝居の不自然な世界は充分魅力的だ。
あまりに個性の違いすぎる3集団が、なんとなく集められて、とても大きなプロジェクトを立ち上げる。共犯企画なんていうまがまがしい集団名が、すばらしい。ストレート過ぎて、何ともいえない。そして、タイトルも『大炎上』である。インパクト強すぎる。もちろん、そのへんが今回の売りであろう。彼らの不良性感度の高さを前面に押し出して、とてつもない悪夢を見せてくれることを期待させる。宣伝の戦略は、見事としか、言いようがない。A3サイズの大型チラシも、そうだし、あの黒い羊の異様さ。裏面の大文字によるコピーと、グランドを横並びになってダラダラと歩いている3集団のメンバーたちの姿を撮った写真を中心としたデザイン。このフライヤーは秀逸である。これだけは絶対に見たい、と思わせる要素は十二分に整った。
2時間15分の大作である。この企画とこの上演時間はとてもぴったりと合っている。それだけのボリュームがなくては、観客の方も満足するまい。カラフルな舞台美術と、思い切った衣装。そして、ドラマをストーリーで押し進めようとはしない演出。意外性を狙ったのではなく、これは悪い芝居の山崎彬さんのいつものスタイルなのだろう。(僕は悪い芝居を見たことがないから、間違っていたらごめんなさい)台本は尼崎ロマンポルノの橋本匡さん。とても彼らしい題材だ。いつものように繊細で、そのくせ大胆な設定を力で捩じ伏せるような芝居を書く。この台本を彼自身が演出したなら、さぞかし重くて暗いタッチのものになっただろう。母親の中に生じた迷宮の中に周囲の人たちが取り込まれていき、気付くと実体のない悪意が世界を覆い尽くしていく。事故、事件、犯罪、テロ、戦争。どんどん肥大化していく状況を丁寧に見せていき、我々観客を恐怖の中に叩き落していく。
だが、今回は全くベクトルの違う山崎演出である。山崎さんのアプローチは小から大へと変貌していく状況を理詰めで見せようとはしない。あくまでもまず、感覚的に捉えていこうとする。明るくポップな色彩を配して、狂気を理屈ではなく、あからさまな現象として表現していく。
何が起こっているのかが、ストレートには伝わってこない。役者たちの個性を殺してしまって記号のように見せていく。人と人との関係がドラマを動かしていくのではなく、ある現象の全体像を見せていくことを旨としている。しかも、シリアスになるところを、遊びのように見せていくので、どこまでが本気で、どこからが冗談なのか明確にはならない。まるで、すべてが冗談であるかのように話が進んでいく。内側から世界を抉ろうとする、橋本さんとは反対に外側から世界を軽くなでるようにして、事件や事象を抉り取ろうとする。この両者のアプローチの違いが、結果的に完成した作品のバランスを著しく欠く結果に繫がる。
求心的な芝居にはならず、状況論に終始するから、ドラマにのめり込めない。このなんとも居心地の悪い芝居は、それでもなんとかギリギリのところで危ういバランスを保つ。それは両者の妥協ではない。それどころか、譲らない姿勢が最終的にこの芝居を作り上げた。このまるで失敗作と受け止められかねない作品が目指した帰着点は何なのか。敢えて訳の分からないこの混沌とした世界の中で、ひとつの方向を目指そうとした主人公たちの(それは作者たちでもある)気分がここには描かれてある。「家族とはいったい何であったのか」という答えは当然ここからは出て来ない。だが、よくわからない不気味さが、最後まで持続する。それだけでも、僕は満足だ。