なんでこんなにも涙が溢れるのだろうか。このたわいもない青春映画がこんなにもキラキラしているのは、ただの甘酸っぱい感傷を描いたからではなく、17,18歳のころのどうしようもない想いを、あの頃のままに描いてしまったからだ。今考えると恥ずかしくて顔を赤らめてしまうような一生懸命さが、ここには横溢している。あの頃、どうして自分はまだ、こんなにも子どもなのかと、苦しんでいた。早く大人になりたいと心から願う。子供だからやれないことや、子供だから越えられない一線がある。それがもどかしい。
もちろん、そんなものただの幻想にすぎないと一蹴することも出来る。だが、18歳はもうそんな「子供」ではない。いろんな意味で分別もあるし、何ができて何が不可能なのかは、なんとなく、わかっている。その程度にはもう「大人」なのだ。
高校3年の夏。彼らは一切受験勉強をしていない。普通ならあり得ない話だ。だが、この映画の中では彼らは参考書すら見せない。それは監督の強い意志だ。飯塚健はきっと彼らが受験で悩んでいることなんか承知の上で、今大事なことはそんなことではないのだ、と考えた。だから、映画の中ではそこには触れない。
好きな女の子に告白すること。それがこんなにも苦しくて切なくて、悲しいことだと、この映画は教えてくれる。どこまでも本気で懸命で、だから、うまく対応できない。もやもやしたものを抱えたまま悶々とした時間を過ごす。バカだなぁ、なんて思わない。そういう誠実さがまぶしい。僕たちはいつの間にか、そういう大切な想いをどこかに置き忘れてきて、さも、そのことが正しいことのように思う。もう大人だから、なんていう言い訳をして。だけど、それでいいわけはない。そんなつまらない大人なら、ならないほうがよい。
大切なものを忘れてしまったり、置き去りにしたままで、それを肯定して、生きるなんか最低だ。しかし、みんなそうしていろんなことを忘れてしまうしかない。あんなにも大切だった想いを置き去りにして成長した自分を悔いる。いつまでも、子供のままではいられないけど、退屈な大人になって惰性で生きるなんて意味がない。
あの頃、大切にしていたもの。それがなんだったのかを、思い出させてくれる。もう取り返すことはできないものだけど、でも、思い出すだけでも、僕らは幸福になれる。感傷では断じてない。そういう映画なら今までも星の数ほどあった。ノスタルジックな青春を描くのではない。どうしようもない想いを抱えたまま、なんとかして、前に向かって進もうとする4人の少年少女の姿を描く。彼らは何に対しても言い訳もしない。目の前のどうしようもない現実を受け止める。どうしようもない想いを形にはできない。
夏休み、彼女が転校した。彼女に逢いに行く。どうしても、もう一度会いたい。2人の少年の想いを彼女は受け止める。もう一人の少女は、そんな少年たちからおいてけぼりにされる。これは男の子の旅だからだ。2人の仲のいい少女たち。連弾する二人の姿が何度となく繰り返される。それは彼女たちの「今」の象徴として描かれる。少年たちは向こうの校舎からそれを見守る。その遠さが、今の彼らの距離だ。そして、その今は永遠に失われる。
映画の最初のほうでダブルデートのシーンがある。無邪気な行為が(でも、それが彼の精一杯なのだが)彼女を傷つける。口もきけなくなる。そして、夏休みが訪れる。毎日彼女に会えたのに、2学期まで会えない。そんなとき、突然の転校を知る。伊豆から和歌山まで。2人の旅が描かれる。そして、彼女と再会する。
もうひとりの彼女から電話がある。夏祭りの誘いだ。ふたりの少女の間で揺れる想いが描かれるのではない。自分の気持ちがよくわからないのだ。二股をかけているはずもない。どちらにも自分の気持ちを伝えきれない。ずるいと言えばとても、ずるい。親友の恋を応援するふりをして、自分も彼女が好きなのに、そんなそぶりも見せない。でも、みんなにばればれなのだが。でも、誰も知らないと彼は思う。だって、自分自身が知らないからだ。
どこにいこうとするのか。どこまでいけるのか。まるで、わからない。でも、なんとかして、どこかにいく。大人になる。背伸びをしても、まだ、子供でしかない彼らが精一杯今の自分を生きようとする。その傷だらけの姿がこんなにも愛おしい。感動のラストシーンは、『時をかける少女』を思わせる。でも、これはフワンタジーへはない。だから、余計に胸に沁みる。
もちろん、そんなものただの幻想にすぎないと一蹴することも出来る。だが、18歳はもうそんな「子供」ではない。いろんな意味で分別もあるし、何ができて何が不可能なのかは、なんとなく、わかっている。その程度にはもう「大人」なのだ。
高校3年の夏。彼らは一切受験勉強をしていない。普通ならあり得ない話だ。だが、この映画の中では彼らは参考書すら見せない。それは監督の強い意志だ。飯塚健はきっと彼らが受験で悩んでいることなんか承知の上で、今大事なことはそんなことではないのだ、と考えた。だから、映画の中ではそこには触れない。
好きな女の子に告白すること。それがこんなにも苦しくて切なくて、悲しいことだと、この映画は教えてくれる。どこまでも本気で懸命で、だから、うまく対応できない。もやもやしたものを抱えたまま悶々とした時間を過ごす。バカだなぁ、なんて思わない。そういう誠実さがまぶしい。僕たちはいつの間にか、そういう大切な想いをどこかに置き忘れてきて、さも、そのことが正しいことのように思う。もう大人だから、なんていう言い訳をして。だけど、それでいいわけはない。そんなつまらない大人なら、ならないほうがよい。
大切なものを忘れてしまったり、置き去りにしたままで、それを肯定して、生きるなんか最低だ。しかし、みんなそうしていろんなことを忘れてしまうしかない。あんなにも大切だった想いを置き去りにして成長した自分を悔いる。いつまでも、子供のままではいられないけど、退屈な大人になって惰性で生きるなんて意味がない。
あの頃、大切にしていたもの。それがなんだったのかを、思い出させてくれる。もう取り返すことはできないものだけど、でも、思い出すだけでも、僕らは幸福になれる。感傷では断じてない。そういう映画なら今までも星の数ほどあった。ノスタルジックな青春を描くのではない。どうしようもない想いを抱えたまま、なんとかして、前に向かって進もうとする4人の少年少女の姿を描く。彼らは何に対しても言い訳もしない。目の前のどうしようもない現実を受け止める。どうしようもない想いを形にはできない。
夏休み、彼女が転校した。彼女に逢いに行く。どうしても、もう一度会いたい。2人の少年の想いを彼女は受け止める。もう一人の少女は、そんな少年たちからおいてけぼりにされる。これは男の子の旅だからだ。2人の仲のいい少女たち。連弾する二人の姿が何度となく繰り返される。それは彼女たちの「今」の象徴として描かれる。少年たちは向こうの校舎からそれを見守る。その遠さが、今の彼らの距離だ。そして、その今は永遠に失われる。
映画の最初のほうでダブルデートのシーンがある。無邪気な行為が(でも、それが彼の精一杯なのだが)彼女を傷つける。口もきけなくなる。そして、夏休みが訪れる。毎日彼女に会えたのに、2学期まで会えない。そんなとき、突然の転校を知る。伊豆から和歌山まで。2人の旅が描かれる。そして、彼女と再会する。
もうひとりの彼女から電話がある。夏祭りの誘いだ。ふたりの少女の間で揺れる想いが描かれるのではない。自分の気持ちがよくわからないのだ。二股をかけているはずもない。どちらにも自分の気持ちを伝えきれない。ずるいと言えばとても、ずるい。親友の恋を応援するふりをして、自分も彼女が好きなのに、そんなそぶりも見せない。でも、みんなにばればれなのだが。でも、誰も知らないと彼は思う。だって、自分自身が知らないからだ。
どこにいこうとするのか。どこまでいけるのか。まるで、わからない。でも、なんとかして、どこかにいく。大人になる。背伸びをしても、まだ、子供でしかない彼らが精一杯今の自分を生きようとする。その傷だらけの姿がこんなにも愛おしい。感動のラストシーンは、『時をかける少女』を思わせる。でも、これはフワンタジーへはない。だから、余計に胸に沁みる。