鶴橋康夫のドラマに魅せられてから、既に20年くらいが経つ。浅丘ルリ子とのコンビで作られた数々の秀作。2時間の単発TVドラマというスタイルの中で、ここまで作家主義を貫く作品を、TVの世界で作り続けてこれたのはなぜなのか。不思議だ。
そんな彼がついに劇場用映画を手がける。題材なんて何でもいい。ただ、彼が映画を撮ること、それだけで大事件なのである。渡辺淳一のベストセラーの映画化なんていうパッケージングももちろん問題外である。さらには豊川悦司と寺島しのぶの大胆なベッドシーン云々も、僕にとっては全く話題にすらならない。こんなくらいのことTVで20年前から散々やってるよ。彼は。かなりやばい題材をどんどん取り上げて、鶴橋流の解釈を加えて、僕たちのところに、そっと提示する。その衝撃に何度打ちのめされてきたことだろうか。
今回の映画も同じである。いきなり主人公が愛人を絞殺する美しいベッドシーンからスタートする。風景とオーバーラップさせた画像処理も、TVで見慣れた彼のやり方だ。ワクワクする。騎馬乗になり、下から女の首を絞めるというありえないスタイルが、2人の愛の深さ、強さを見事に示す。男が手に力を加えた時、女は苦しみながらも、至福の表情を見せる。リアリティーのない状況なのに、なんと説得力のある描写であろう。
この単純な殺人シーン(もちろんそれは最高の愛情表現でもある)の後、虚脱状態の男が、女の死体と過ごす夜明けから朝までの時間が描かれ、そして、5時間後、彼は警察に通報する。ここまでが素晴らしい。
その後、回想として描かれる、2人が出逢い子供のように無邪気に恋をして、逢引きを(デートという無粋な言い方はなんか違う)重ねていくシーンも美しい。この2人だけのドラマとして、この映画を見ていくことができたなら、どれだけ幸せだったか。これは一つの究極の愛の物語として納得がいったかもしれない。この映画もまた安藤尋の『僕は妹に恋をする』と同じようにに完全に閉じた2人だけの世界の物語なのである。
しかし、そこに、心中ではなく男による殺人、終わりとしての死(縊死)を描いたために、2人の世界は終わりを告げる。映画自体のテーマはこの終わった後の地獄の日々の中で、男はどこに向かっていくのかを描くことにある。
ねらいは悪くない。しかし、警察とのやり取り、法廷でのドラマという、外界での描写があまりに陳腐すぎて、2人の内面でのドラマとの落差が、大きくなりすぎアンバランスな映画になってしまったことも事実である。どうしてこんなことになったのだろうか。愕然とさせられる。
寺島しのぶが今までで、一番美しい。そして、彼女を受け入れ大きな愛で包み込もうとして、反対に彼女の美しさに包み込まれていく豊川悦司もまた、素晴らしい。この2人だけの映画だったなら、これは傑作になっている。
だが、現実は彼らを囲む醜悪な世界の住人たちの、呆れるくらいに低俗な描写が、全てをぶち壊す。映画自体が、その本気とも冗談ともつかないような見せ方により、空中分解してしまうのだ。特に、検事を演じた長谷川京子が酷い。あんな頭の悪そうな検事が存在するとは思えない。さらには、寺島の夫の仲村トオル。なんだあの演技は。バカとしか思えない。さらには、弁護士の陣内孝則もいつも通りのパターン演技。佐藤浩市の刑事すら、なんかいつもとは違い、精彩を欠く。役者たちは一流を集めているのに、なぜこうなるのか。演出のミスとしか思えないのがつらい。
鶴橋はなぜ、2人の周辺にリアリティーのない現実を配したのかが、よく分からない。2人との対比を明確にするためなのかもしれないが、これでは失敗としかいいようがない。唯一どきりとさせられたのは藤司純子の母親が、男のところに行く彼女を見送るシーン。何も言わないのに全てを理解し、止めるでもなく、送り出す。あのシーンは素晴らしい。
今年1番の期待作なのに不本意な作品になったのは残念でならないが、鶴橋康夫の映画が見れたということだけでも、実は満足だ。
そんな彼がついに劇場用映画を手がける。題材なんて何でもいい。ただ、彼が映画を撮ること、それだけで大事件なのである。渡辺淳一のベストセラーの映画化なんていうパッケージングももちろん問題外である。さらには豊川悦司と寺島しのぶの大胆なベッドシーン云々も、僕にとっては全く話題にすらならない。こんなくらいのことTVで20年前から散々やってるよ。彼は。かなりやばい題材をどんどん取り上げて、鶴橋流の解釈を加えて、僕たちのところに、そっと提示する。その衝撃に何度打ちのめされてきたことだろうか。
今回の映画も同じである。いきなり主人公が愛人を絞殺する美しいベッドシーンからスタートする。風景とオーバーラップさせた画像処理も、TVで見慣れた彼のやり方だ。ワクワクする。騎馬乗になり、下から女の首を絞めるというありえないスタイルが、2人の愛の深さ、強さを見事に示す。男が手に力を加えた時、女は苦しみながらも、至福の表情を見せる。リアリティーのない状況なのに、なんと説得力のある描写であろう。
この単純な殺人シーン(もちろんそれは最高の愛情表現でもある)の後、虚脱状態の男が、女の死体と過ごす夜明けから朝までの時間が描かれ、そして、5時間後、彼は警察に通報する。ここまでが素晴らしい。
その後、回想として描かれる、2人が出逢い子供のように無邪気に恋をして、逢引きを(デートという無粋な言い方はなんか違う)重ねていくシーンも美しい。この2人だけのドラマとして、この映画を見ていくことができたなら、どれだけ幸せだったか。これは一つの究極の愛の物語として納得がいったかもしれない。この映画もまた安藤尋の『僕は妹に恋をする』と同じようにに完全に閉じた2人だけの世界の物語なのである。
しかし、そこに、心中ではなく男による殺人、終わりとしての死(縊死)を描いたために、2人の世界は終わりを告げる。映画自体のテーマはこの終わった後の地獄の日々の中で、男はどこに向かっていくのかを描くことにある。
ねらいは悪くない。しかし、警察とのやり取り、法廷でのドラマという、外界での描写があまりに陳腐すぎて、2人の内面でのドラマとの落差が、大きくなりすぎアンバランスな映画になってしまったことも事実である。どうしてこんなことになったのだろうか。愕然とさせられる。
寺島しのぶが今までで、一番美しい。そして、彼女を受け入れ大きな愛で包み込もうとして、反対に彼女の美しさに包み込まれていく豊川悦司もまた、素晴らしい。この2人だけの映画だったなら、これは傑作になっている。
だが、現実は彼らを囲む醜悪な世界の住人たちの、呆れるくらいに低俗な描写が、全てをぶち壊す。映画自体が、その本気とも冗談ともつかないような見せ方により、空中分解してしまうのだ。特に、検事を演じた長谷川京子が酷い。あんな頭の悪そうな検事が存在するとは思えない。さらには、寺島の夫の仲村トオル。なんだあの演技は。バカとしか思えない。さらには、弁護士の陣内孝則もいつも通りのパターン演技。佐藤浩市の刑事すら、なんかいつもとは違い、精彩を欠く。役者たちは一流を集めているのに、なぜこうなるのか。演出のミスとしか思えないのがつらい。
鶴橋はなぜ、2人の周辺にリアリティーのない現実を配したのかが、よく分からない。2人との対比を明確にするためなのかもしれないが、これでは失敗としかいいようがない。唯一どきりとさせられたのは藤司純子の母親が、男のところに行く彼女を見送るシーン。何も言わないのに全てを理解し、止めるでもなく、送り出す。あのシーンは素晴らしい。
今年1番の期待作なのに不本意な作品になったのは残念でならないが、鶴橋康夫の映画が見れたということだけでも、実は満足だ。