最初はうつ病の話のようなのなのだが、それが家族の問題にすり替わり、それは宗教の話になり、宇宙の話へと移行し、気がつくとなんだかわからないような壮大なドラマにもなるのだ。話はどんどん横滑りしていき、スライドしていき、原形を留めない。
人は多かれ少なかれみんな病を抱えて生きている。それと向き合い、ギリギリでなんとか自分を保っているのだ。今回のコトリ会議は2本立。しかも、長編で2本。これは2つの壊れてしまった人たちの物語。ひとつは家族が壊れていく話。もうひとつは個人が(集団で)壊れていく話。まずは、家族劇である『はなの台ふき』から。
主人公の智子が、うつ病のようなもの、になった。恋人を伴って帰ってきて母親に告白するところから話が始まる。だが、だんだんおかしいのは智子ではなく、母親のほうではないかと、思えてくる。さらには、この家族自身がおかしい。父親も姉も普通じゃない。智子の病気は彼らのせいだ、とわかる。病んだ家族の中にあって、今まで彼女だけがなんとか平静を保ってきた、ということが外部の人間である彼女の恋人によって見えてくる。そしてこの家族が抱える闇がどんどん膨らんでいく。
果たして病んでいるのは誰なのか。宇宙人の来訪を描く終末部分は、もう誰を信じていいのやらわからない気分にさせる。そして、もうどうでもいいや、とも思わせる。絶対的な正しさなんかない。この芝居を見る直前、大竹野正典の戯曲『一家団欒』を読んだからかもしれないが、山本正典と大竹野正典がとても似ていることに初めて気付く。死んでしまった家族が和やかに会話する『一家団欒』の怖さと、この作品の怖さは共通する。ここには暴力がある。しかし、その暴力は優しさや思いやりに通じる。
母は家族を守りたいから、彼女のむちゃくちゃな理屈を、(それはもう宗教と呼んでもいい)家族に強いる。父はそんな彼女を受け入れることで、同じように家族を守ろうとする。2人の子供たちもまた同じだ。お互いを思いやることで、この家族は壊れてしまっている。そこにやってくる青年は、この家族から監禁される。暴力でこの家から出られなくされる。
壊れていた家族が、母の言動をまとめた本の出版によって、崩壊を食い止める。有名人になってしまった母親は、この家を守るため、仕事でこの家を出て行くことになる。マスコミから引っ張りだこになった彼女は各地での講演旅行の日々が続くのだ。彼女の不在のもと、家族は完全に崩壊していく。
ラストのカタストロフも含めて、僕たちの信じる理屈では割り切れない複雑なものがそこにあることに気付く。
人は多かれ少なかれみんな病を抱えて生きている。それと向き合い、ギリギリでなんとか自分を保っているのだ。今回のコトリ会議は2本立。しかも、長編で2本。これは2つの壊れてしまった人たちの物語。ひとつは家族が壊れていく話。もうひとつは個人が(集団で)壊れていく話。まずは、家族劇である『はなの台ふき』から。
主人公の智子が、うつ病のようなもの、になった。恋人を伴って帰ってきて母親に告白するところから話が始まる。だが、だんだんおかしいのは智子ではなく、母親のほうではないかと、思えてくる。さらには、この家族自身がおかしい。父親も姉も普通じゃない。智子の病気は彼らのせいだ、とわかる。病んだ家族の中にあって、今まで彼女だけがなんとか平静を保ってきた、ということが外部の人間である彼女の恋人によって見えてくる。そしてこの家族が抱える闇がどんどん膨らんでいく。
果たして病んでいるのは誰なのか。宇宙人の来訪を描く終末部分は、もう誰を信じていいのやらわからない気分にさせる。そして、もうどうでもいいや、とも思わせる。絶対的な正しさなんかない。この芝居を見る直前、大竹野正典の戯曲『一家団欒』を読んだからかもしれないが、山本正典と大竹野正典がとても似ていることに初めて気付く。死んでしまった家族が和やかに会話する『一家団欒』の怖さと、この作品の怖さは共通する。ここには暴力がある。しかし、その暴力は優しさや思いやりに通じる。
母は家族を守りたいから、彼女のむちゃくちゃな理屈を、(それはもう宗教と呼んでもいい)家族に強いる。父はそんな彼女を受け入れることで、同じように家族を守ろうとする。2人の子供たちもまた同じだ。お互いを思いやることで、この家族は壊れてしまっている。そこにやってくる青年は、この家族から監禁される。暴力でこの家から出られなくされる。
壊れていた家族が、母の言動をまとめた本の出版によって、崩壊を食い止める。有名人になってしまった母親は、この家を守るため、仕事でこの家を出て行くことになる。マスコミから引っ張りだこになった彼女は各地での講演旅行の日々が続くのだ。彼女の不在のもと、家族は完全に崩壊していく。
ラストのカタストロフも含めて、僕たちの信じる理屈では割り切れない複雑なものがそこにあることに気付く。