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映画・演劇のレビュー

藤谷治『わが異邦』

2011-11-04 23:21:49 | その他
 モーシン・ハミッド『コウモリの見た夢』に続いて、この本を読む。偶然にも、どちらもたったひとりで異邦であるアメリカに行った男を描いた話で、そこでの単調な毎日の生活の中で自分を見失っていく男の話だ。『コウモリ』の終盤、恋人が精神病院に入り、痩せ衰えて、やがて自殺していく、という展開が、ちょっと嘘くさくて、入り込めなかったが、こちらは主人公が唯一心を許したタイ人の娼婦が、娼館を抜け出し、彼を頼ってくるところから、彼女がひとりでニューヨークに行くまでの展開がとても気持ちがわかりやすくってリアルだった。

 仕事、人間関係、女性問題、そのへんがこの小説の要となっている。パキスタン人と日本人では状況がかなり異なると思うけど、それだけでなく、年齢的にも22歳(大学に入学するところから始まるが、実際のドラマは就職したところから)と、25,6歳というふうに2作品には少し開きがある。さらには9・11と地下鉄サリン事件という背景にある事件の違いも大きい。だが、そんなことのひとつひとつが、実はこの2つの小説の類似点を構成する。

 「明るく巨大なアメリカ」という外見の単純なルックスとは裏腹に、そこで生活する中で感じる現実のアメリカは、相変わらずの差別と偏見に満ちている。チャンゲーズはパキスタンに帰ってイスラム原理主義者になるが、この小説の私は、日本の日常に帰るだけだ。背負うものが違うのだろうが、どちらもその孤独の深さには差はない。

 この小説は併載された2つの短編とも連動する。『ふける』『日本私昔話より じいさんと神託』という2作品における主人公がどんどん追いつめられていくさまは痛々しい。誰かとつながりたいにもかかわらず、その方法を見いだせず、現実から逃避していくだけだ。この3作品は同じ主人公がどんどん精神的に追いつめられていく過程を描く連作のようにも見える。

 図書館で借りたこの本にはセックスやそれを連想させる部分に落書きがされてあった。鉛筆でラインが引かれてあり、さらには赤のボールペンで線引きされてある部分まである。エロ本でもないのに、誰がこんなことをするのか、不思議だった。「キス」とか、どうでもいいような部分にまで執拗にラインを入れてある。もともとこの小説には性描写自身が皆無である。そんな小説にどうして、こんないたずらをするのか。そんな変質者がこの本を借りて読んでいるなんて、なんか気味が悪かった。この男をこういう行為に駆り立てるのは何なのだろうか。よくわからない。ポルノがお望みならどこにでもそんな本はある。なぜ、この本なのか。

 この小説の主人公たちはいずれも女に対するコンプレックスがある。ある娼婦に入れあげたり、風俗に女を買いに行こうとしたり、妻にコンプレックスを抱いたり、要するにまともに女性ときちんとしたつき合いが出来ない男を描いてある。そういう意味でこの落書き男も同じタイプの変人なのかもしれない。でも、やはり少し気持ちが悪い。


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