Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

ポルトガルの旅 (6) サオ・ペドロ・デ・モエル(Sao Pedro de Moel)

2010-11-15 16:22:20 | キャンパーヨーロッパ 2010年



ポルトガルに入国して以来、泊まっているキャンプ場はオービター(Orbitur)という系列キャンプサイトで、これで5箇所のオービターサイトを周ってきている。私たちと同じように同じサイトで泊まり、ほとんど同じようにゆっくり南下しているヨーロッパ人がいる。一昨日のサイトでおしゃべりしたスイス人夫妻は、その前のサイトでも一緒だった。昨日着いたサオ・ペドロ・デ・モエルのサイトで大喜びで手を振ってくれたフランス人夫妻は、ミラのサイトを探している時に出会った。いずれも来年春まで南ポルトガルで越冬する予定で、ゆっくり観光しながら南へ移動している。

昨日の朝スイス人夫妻とわかれ、南へ35Kmのレイリア(Leiria)の町へやってきた。町の中心にはどこからでも目に入る高い丘の上に、レイリア城が睥睨している。この城は1135年にポルトガルの初代王アフォンソ・エンリケスがイスラム教徒から奪取したもので、14世紀には王室の居城となり、現在の建築物は16世紀に改修されたものだとの事。城へ登る余裕がなく、インフォメーションを探して町を歩き回ったが、諦めて、20km西海岸のキャンプサイトへ行くことにした。レイリアの駐車場のすぐ近くにはやたらとカラフルなスポーツ・スタジアムが在り、この色彩感覚はこの国の特徴かもしれないと思った。


 

サオ・ペドロ・デ・モエルはほとんど新しいホリディタウンでキャンプサイトから歩いて20分もすれば一周できる。町の北端には灯台が建っていて、夜にはキャンプサイトの松林の間を灯台の光が通り抜ける。
高い崖から見下ろすとこの海岸の岩場は奇岩が連なり、ポルトガルの観光バスが団体客を降ろしていた。日本の観光案内には決して載らないところだろう。シーズンオフのこのごろでは、町の通りに人影を見るのもまれで、スーパーも小さいのが一軒開いていた。



 

土曜日の朝、澄み切った青空に朝日が輝き、キャンプサイトの松林の中は光が踊っているようだ。今日一日この近くを散歩しようと決めた。町の遊園地付近に、廃棄された共同洗濯場が目に付き、きれいな水に手を入れてみると暖かい。この上流に温泉が湧いているらしい。海岸を次の村まで歩いてみようと砂丘をぬける。肉厚の雑草が赤く紅葉して砂丘を飾っている。ピンクや白のヘザー(ヒース)の花が咲いている。



  


  

きれいな砂浜は果てしなく長く、犬とその連れの足跡がどこまでも伸びている。岩場へ来るとその形や色彩の変化に興味をそそられる。何層にも堆積された岩がほとんど同じような形に裂けて自然の妙には感嘆する。


   

右下の平らな床のような岩は,一見すれば人工のクレージー・ペーヴメントのようだが、自然は思いがけないことをするものだ。この岩は砂のついた靴で歩くと、滑ってとても危ない。

   

誰もいない閉まったままの小さな村の壁に見つけたアズレージョを見て、ポルトガルの土産はあんな絵が欲しいと言ったら,亭主はやたらと恐れていた。この無人の村の雑草がこんなにきれいな花を咲かせていた。

  

灯台までの海岸線には観光客用の木製遊歩道が連なる。これはこの土地だけでなく、今まで通ってきたポルトガルの砂浜にはいたる所で見かけるもので、よく計画され整備されているといつも感心している。


  




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ポルトガルの旅 (7) アルコバサ(Alcobaca)

2010-11-15 10:00:28 | キャンパーヨーロッパ 2010年



アルコバサはアルコウ河とバサ河の交わった川辺の古い町でこの小さな町は世界遺産のサンタ・マリア修道院で世に知られる。
この修道院を訪れた日曜日の朝は、まだ人出もあまりなくて、二人で20ポンドはする入場料が日曜日は只。左下の写真で見るとわかるようにこの修道院の奥行きの長いこと。横幅もこれくらいあるから、これほど巨大な教会や修道院は今まで見たことがない。
日本語の案内書によればこの修道院は1153年、初代国王アフォンソ・エンリケスによって建設され、1222-1223年に白衣の僧たちが居住するようななったとの事。カソリックでも厳格なシトー派の戒律で,僧たちは付属教会と寝室の建設、土地の開墾と栽培、苦行と唱歌祈り、労働など、外部との一切の接触を断ち絶対静粛の集団生活を送っていた。

 

教会内部は質素、シンプルで時代に適応して内部も改築改修され、1834年に宗派解体によって修行僧たちが去るまで、最盛期には1000人もの僧たちが居住していたという。

 

祭壇の両脇に14世紀を代表する棺彫刻の傑作であるドン・ペドロ一世とイネス・デ・カストロのすばらしい石棺が置かれている。この二人の悲恋物語は有名だと、日本語の説明書も地球の歩き方も書いているが、内容を一切書いていないから判らなくて残念。

 

王たちの広間には壁に青のアズレージョが貼られ、上部には粘土細工の歴代の王の姿が飾られている。修道院の中庭を囲むドンディニスの回廊は、オレンジとレモンが豊作で緑の芝生に黄色の斑点を散らしていた。


 

千人もの僧たちを賄った厨房の中心の煙突には驚かされる。高さも20メータは在るだろう。この煙突の下で一体どんな大鋸まで食事を作っていたものだろうか?厨房の横には大広間の食堂が在るが家具一切が取り払われているので、案内書を見なければ食堂だとは判らない。食堂横の壁に作られた階段の上で、食事中も経典の朗読がなされた朗読壇はこの建築物中最も美しい建築箇所だそう。


 

回廊は二階建てになっており、二階の屋根から雨水を吐き出すガーゴイルは、ヨーロッパの中世の教会や宮殿でも普通に見られるが、ここのガーゴイルはいろいろな動物の姿で、豚のガーゴイルは初めて見た。

 


 


私たちが今現在見学できる場所は、この修道院のほんの一部だろうが、もう百年以上も人の住み着いていない居住地区は一体どうなっているのだろうとちょっと心配になる。でもここは世界遺産に指定されるだけの価値は十分に在ると心から思った。永久に後世に残して欲しいものだ。











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