娘が中学生になって、ほぼ一ヶ月が過ぎた。
その間に、小学校と大きく違う様々な中学校のカリキュラムにも
慣れてきたようで、新しい友達も少しずつできてきたようだ。
夕食の席で娘の中学校生活を耳にすると、ボクも懐かしく思ったり、
自分たちと違う今の決まり事に隔世の感がしたり・・・。
なかでも、“そのやり方は、ちょっとどうなのかなぁ”と戸惑ったことが、ひとつあった。
それは、部活だった。
娘が通う中学校では、生徒は必ず何かしらの部に入らなければいけないらしい。
つまり、部活が“義務”になっているのだ。
しかも部に入るためには、学校が用意した「入部届」に必要事項を記入して
部の顧問の先生にではなく、担任の先生に提出する。
おまけにその入部届の用紙には、ご丁寧に親の署名と判と緊急連絡先等々も
記入する欄があった。
なんだよ、これ?
ボクらが中学生の頃は、入部したければ、放課後にグランドなり体育館なり、
その部活動をしている場所にテクテクと行って、先輩か顧問の先生に、
“あのぉ~、入部したいんですけど・・・”とたどたどしくても自分の口で告げて
入部した。
もちろん、義務なんかじゃなかった。
部活は授業じゃないのだから、何も部に入っていない同級生は数え切れないほどいた。
いわゆる、帰宅部だ。
ボクだって、中1の時から陸上部だったけど、中3の夏休み前に自主退部したから、
最後は帰宅部だった。
ちなみに、卒業アルバム用の部活の写真撮影をしたのが退部した翌日だったので、
撮影の一週間後に退部した同級生は陸上部員として堂々と卒業アルバムに写って
いるが、ボクは見事に写っていない。
この件に関しては、ボクはいまだに顧問の教師を許していない(爆)
ちょっと、話が逸れてしまった。
つまり、部活をするのもしないのも自由。したいのなら、自分で入部しなさい・・・と
いうのが、中学生の部活動の決まり事だったのだ。
要するに、自主性に任されていたのだ。
ボクは、今でもこのやり方の方が中学生らしいと思う。
学生服や英語の授業や弁当や自転車通学・・・etc.中学に入学してから、そこが
小学校とは違う学校なのだと実感することは多々あったが、大人になった今思い返せば、
その最たるものが、“部活”だったように思う。
人の親になってからというもの、未熟ながらも子どもの躾のためにこれまでいろいろと
試行錯誤してきたが、その中で最近、子どもの成長のために最も必要なことは何か?と
考えることがたまにある。
ボクは、突き詰めればそれは、“自分のことは自分で”ということになるのではないか?と
思うことがある。
“服を着替える”、“片付ける”といったような、幼児の時には幼児なりの自主性の育て方が
あるし、小学生になれば小学生なりの自主性の育て方があるだろう。
そんな風に成長してゆけば、中学生には中学生なりの自主性の育て方があるはずだ。
部活なんて、その最たるものじゃないか。
しかし、なぜ部活を義務的なモノにしてしまったのだろう。
少子化で生徒の数が減ったぶん、どの部も部員数が減ってしまうからだろうか?
でも、それは国や時代の責任で子ども達には責任はないだろうに。
それとも、部活をさせていれば非行に走らない・・・とか、そういう考え方からだろうか?
もしそうなら、あまりにも滑稽だし本末転倒だし教育のベクトルの方向がデタラメだし、何よりも反吐が出る。
ボクらの中学時代でも、部活を一所懸命やりながらもタバコ吸ったりバイクに乗ってるヤツはいたぞ(笑)
中学の3年間は、長い人生の中で最も変化が大きくて、もしかしたら一生を左右する出来事にも
出会うかもしれない。どんな人でも人生の基礎が出来上がる大事な大事な3年間だろう。
そんな3年間の出だしを、“受け身”でスタートさせるのって、どうなのだろう?
たしかに自分のことを自分で決めて行動するは大変だ。
迷ったり、悩んだり、恥をかいたり、傷つけたり、傷つけられたり・・・etc.そんなことの連続だ。
でもそういう中からでしか、人間社会を生き抜く“強さ”は生まれないのではないだろうか。
せめて部活くらいは、12、3才なりの決断と実行を自分たちでさせてやった方がいい。
もしその決断が間違って失敗しても、それだってひとつの勉強じゃないか。
まだ子どもなんだから、親や周りの大人たちに守って支えてもらえる間に、その中で様々な決断と
行動の練習をさせてあげる方がよっぽど大事だと、ボクは思う。
・・・気がついたら、予想以上の長文日記になってしまった(汗)
ちなみに、ボクの娘は、美術部に入部した。
GWの休日中も、2日ほど部活動で休みが潰れるのだと、ぼやいていた。
しかし、念のために言っておきますが、娘の入部は“義務”ではありません。
絵を描くのが何よりも好きなので、小学生の時から入部を決めていて、入部届を担任の先生に提出する前に、
自分から美術室に行ったそうだ。
その間に、小学校と大きく違う様々な中学校のカリキュラムにも
慣れてきたようで、新しい友達も少しずつできてきたようだ。
夕食の席で娘の中学校生活を耳にすると、ボクも懐かしく思ったり、
自分たちと違う今の決まり事に隔世の感がしたり・・・。
なかでも、“そのやり方は、ちょっとどうなのかなぁ”と戸惑ったことが、ひとつあった。
それは、部活だった。
娘が通う中学校では、生徒は必ず何かしらの部に入らなければいけないらしい。
つまり、部活が“義務”になっているのだ。
しかも部に入るためには、学校が用意した「入部届」に必要事項を記入して
部の顧問の先生にではなく、担任の先生に提出する。
おまけにその入部届の用紙には、ご丁寧に親の署名と判と緊急連絡先等々も
記入する欄があった。
なんだよ、これ?
ボクらが中学生の頃は、入部したければ、放課後にグランドなり体育館なり、
その部活動をしている場所にテクテクと行って、先輩か顧問の先生に、
“あのぉ~、入部したいんですけど・・・”とたどたどしくても自分の口で告げて
入部した。
もちろん、義務なんかじゃなかった。
部活は授業じゃないのだから、何も部に入っていない同級生は数え切れないほどいた。
いわゆる、帰宅部だ。
ボクだって、中1の時から陸上部だったけど、中3の夏休み前に自主退部したから、
最後は帰宅部だった。
ちなみに、卒業アルバム用の部活の写真撮影をしたのが退部した翌日だったので、
撮影の一週間後に退部した同級生は陸上部員として堂々と卒業アルバムに写って
いるが、ボクは見事に写っていない。
この件に関しては、ボクはいまだに顧問の教師を許していない(爆)
ちょっと、話が逸れてしまった。
つまり、部活をするのもしないのも自由。したいのなら、自分で入部しなさい・・・と
いうのが、中学生の部活動の決まり事だったのだ。
要するに、自主性に任されていたのだ。
ボクは、今でもこのやり方の方が中学生らしいと思う。
学生服や英語の授業や弁当や自転車通学・・・etc.中学に入学してから、そこが
小学校とは違う学校なのだと実感することは多々あったが、大人になった今思い返せば、
その最たるものが、“部活”だったように思う。
人の親になってからというもの、未熟ながらも子どもの躾のためにこれまでいろいろと
試行錯誤してきたが、その中で最近、子どもの成長のために最も必要なことは何か?と
考えることがたまにある。
ボクは、突き詰めればそれは、“自分のことは自分で”ということになるのではないか?と
思うことがある。
“服を着替える”、“片付ける”といったような、幼児の時には幼児なりの自主性の育て方が
あるし、小学生になれば小学生なりの自主性の育て方があるだろう。
そんな風に成長してゆけば、中学生には中学生なりの自主性の育て方があるはずだ。
部活なんて、その最たるものじゃないか。
しかし、なぜ部活を義務的なモノにしてしまったのだろう。
少子化で生徒の数が減ったぶん、どの部も部員数が減ってしまうからだろうか?
でも、それは国や時代の責任で子ども達には責任はないだろうに。
それとも、部活をさせていれば非行に走らない・・・とか、そういう考え方からだろうか?
もしそうなら、あまりにも滑稽だし本末転倒だし教育のベクトルの方向がデタラメだし、何よりも反吐が出る。
ボクらの中学時代でも、部活を一所懸命やりながらもタバコ吸ったりバイクに乗ってるヤツはいたぞ(笑)
中学の3年間は、長い人生の中で最も変化が大きくて、もしかしたら一生を左右する出来事にも
出会うかもしれない。どんな人でも人生の基礎が出来上がる大事な大事な3年間だろう。
そんな3年間の出だしを、“受け身”でスタートさせるのって、どうなのだろう?
たしかに自分のことを自分で決めて行動するは大変だ。
迷ったり、悩んだり、恥をかいたり、傷つけたり、傷つけられたり・・・etc.そんなことの連続だ。
でもそういう中からでしか、人間社会を生き抜く“強さ”は生まれないのではないだろうか。
せめて部活くらいは、12、3才なりの決断と実行を自分たちでさせてやった方がいい。
もしその決断が間違って失敗しても、それだってひとつの勉強じゃないか。
まだ子どもなんだから、親や周りの大人たちに守って支えてもらえる間に、その中で様々な決断と
行動の練習をさせてあげる方がよっぽど大事だと、ボクは思う。
・・・気がついたら、予想以上の長文日記になってしまった(汗)
ちなみに、ボクの娘は、美術部に入部した。
GWの休日中も、2日ほど部活動で休みが潰れるのだと、ぼやいていた。
しかし、念のために言っておきますが、娘の入部は“義務”ではありません。
絵を描くのが何よりも好きなので、小学生の時から入部を決めていて、入部届を担任の先生に提出する前に、
自分から美術室に行ったそうだ。