林檎乃「とほほ・・・。」ブログ

林檎乃麗の「とほほ・・・。」な日常を綴っています。 

九州バースデイきっぷの旅 7.

2014-06-24 | 鉄道・旅行
 7.別府再訪問と“油屋熊八”の精神

博多駅からまずは別府を目指す。
別府駅は2004年5月23日に既に取材済みだが、
そのあと駅が2005年にリニューアル工事が施され、
外見が大幅に変わったために再訪問したかったのだ。
乗り換え時間は35分で一端新幹線改札から出て、
在来線改札口から“バースディきっぷ”で再入場しても充分時間がある。
駅で少し車両取材してから09:02始発の特急「ソニック9号」に乗り込む。



特急「ソニック9号」には883系第5編成が充当されていた。



883系は8編成が在籍するが、前面の“鼻”にあたる部分が、
第1編成、第2編成はリーフ形、第3編成はスリット形、第4編成以降はS字となっている。
またリニューアル前は第6編成から第8編成まではパネルの色も変わっていて、
第6編成は白、第7編成は黄色、第8編成は紺色となっている。
第1編成から第5編成までは7両編成、第6編成から第8編成までは5両編成で落成、
リニューアルによって塗色変更が行われたほか、
5両編成として落成した第6編成から第8編成に新造の1000番台2両を組み込み、
全ての編成が7両編成として運用できるようになった。
グリーン席では選任のアテンダントも乗車していて、飴玉を配ってくれた。
博多を出発して鹿児島本線を小倉まで行き、
小倉でスイッチバックして日豊本線に入って大分まで行く。
終点のひとつ前の別府で下車して、ここで駅取材する。



駅前にある銅像には「子供たちをあいした ピカピカのおじさん」と補足された、
「別府観光の父 油屋熊八の像」と書かれている。
銅像の側面にはプロフィールが書かれている。

    あぶらや・くまはち のプロフィール

 ・1863(文久3)年、愛媛県宇和島の米問屋に生まれる。
  小さいときから働きもので有名だった。

 ・30歳のとき大阪に出て、米の相場で成功し、巨万の富を手にする。
  つけられたアダ名が“油屋将軍”。

 ・34歳で相場に失敗し、全財産をなくす。
  臭くて暑い船底に乗りアメリカへ。

 ・3年間かけてカナダからメキシコまで旅し、38歳のとき帰国。
  アメリカでキリスト教の洗礼を受けていた。

 ・46歳のころ、別府温泉に移り住み、ホテルの経営をはじめた。
  それはやがてね世界のお金持ちを迎える一流ホテルに成長する。

 ・アメリカで目にしたスケールの大きな観光地づくりを実践。
  大阪の上空から飛行機でビラをまいたり、
  “山は富士 海は瀬戸内 湯は別府”と書いた標柱を富士山にかつぎあげて立てたり・・。
  当時はだれも思いつかないような奇抜なアイディアをつぎつぎに実行した。

 ・美人バスガイドが観光案内する観光バスを日本ではじめてつくったのもこの人である。
  “地獄めぐり”は爆発的人気をあつめた。

 ・この人のまわりには、別府観光のためならなんでもしようというオモシロイ人たちがあつまった。
  みんな子供たちが大好きで、『オトギ倶楽部』を結成し、童謡や歌や演奏を聞かせた。
  クリスマスにはサンタクロースが水上飛行機から下りてきて、子供たちをびっくりさせたりした。
  『オトギ倶楽部』で、あぶらや・くまはちは“ぴかぴかのおじさん”とよばれていた。

 ・湯布院温泉を観光地として開発したのもこの人だった。
  当時描いていた観光プランは別府-由布院-久住温泉-阿蘇-長崎をむすんで道路をつくるという、
  九州全体を視野に入れたものだった。

 ・1935(昭和10)年、別府市で死去。73歳だった。
  くまはちが抱いた“ここを世界の観光地にしよう”という夢は、
  いまもこの町のあちこちに生きて息づいている。

別府という温泉観光地を開発した開発した人物として、
油屋熊八は今もこの街の人たちに愛されているのだろう。
別府での取材時間は31分で充分すぎるくらい余裕があったのだが、
ここから11:28発の特急「ソニック11号」で大分に移動、10分の乗車時間だった。



特急「ソニック11号」には883系第8編成が充当されていた。
区間が短いので指定席は取らず、自由席での移動だった。
大分駅も別府駅同様リニューアルの計画があったが、
完成していたのは上野の森口(南口)だけで、
府内中央口(北口)はまだ工事中で工事用フェンスに覆われていた。
とほほ・・・。
コメント
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