8.豊後竹田のカレーと全通した豊肥本線
大分駅での取材時間は17分だったが、
府内中央口(北口)の取材が出来なかったので時間は充分にあった。
ホームに上がって11:56発の別府からやってくる特急「九州横断特急3号」を待つ。
非常に説明的な愛称名で、国鉄時代から見てもなかなかない。
愛称名通り、日豊本線の別府から大分まで来て、豊肥本線で九州を横断、
熊本から鹿児島本線に入って八代から肥薩線に入って人吉まで行く。
別府から熊本までの特急「あそ」と熊本から人吉の「くまがわ」を統合する形で誕生した。
大分から豊後竹田まで約1時間の旅である。
モノクラスのため普通席で指定を取る。
赤く塗色変更されたJR四国から購入したキハ185系が充当されている。
キハ185系は国鉄末期に厳しい経営が予測されるJR四国のために造られた車両で、
2000系投入などで余剰になったものをJR九州が購入、
コーポレイトカラーである赤に塗色し、「あそ」や「くまがわ」、
2004年3月13日の九州新幹線鹿児島ルートの部分開業に合わせ、
特急「九州横断特急」にも従事されるようになった。
2両編成でグリーン席はなく、1号車が指定席、2号車が自由席となっている。
途中、中判田ですれ違い待ちの間に車両取材する。
13:00に豊後竹田に到着、駅取材してから駅前の「カレーハウスりんご屋」でカツカレー800円喰う。
先客もあって相席となったが、それでもカツカレーは美味かった。
会計を終えてから店主の女性が話しかけてきた。
豊肥本線が豊後竹田から宮地までが不通になっていたため、
ここで折り返す予定だったのだが、全通したためにこの先にも電車で行くという話や、
もともとここで下りる予定だったので、
敢えて特急を降りてここから先は普通列車で行くという話をした。
彼女は大学に通う息子が青春18きっぷで帰ってきたことがあるなどという話をしてくれた。
約20分くらい話したところで、女子高生たちが来店してきたのでここでお暇する。
ここではカレーパンのテイクアウトもやっていて、
彼女たちはそれを目当てにやってきたのだ。
豊後竹田での取材時間は1時間27分で、「りんご屋」でのお喋りを含めても、
少し時間を持て余してしまった。
ここから宮地までは2012年7月の九州北部豪雨によって運転見合わせをしていた区間である。
駅舎には立松和平氏がこの駅に書いた文の抜粋が掲示されていた。
「竹田の月」
「荒城の月」の作曲家瀧廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、
建物がすべて取り壊され荒れ果てた古城の中に、
すでに存在しない高楼を幻視したのだ。
日本人なら誰でも知っているこの曲が、
岡城と竹田に限りない気品を与えているのである。
私たちは竹田の人たちと、岡城ならぬ市内の長湯温泉で酒宴を張った。
竹田の人たちは宴の最後に、この「荒城の月」を声を揃えて歌うのである。
宴が果てた後、私は旅館にある茶室のような一人用の風呂にはいった。
頭をぶつけないように注意して湯の中に身体を沈めると、
目の前の夜空に満月が皓皓と輝いていたのであった。
この月にも香り高い気品が漂っていた。
立松和平
~「竹田の月」より抜粋~
ここからはキハ220系1両編成が充当されていた。
それのでのキハ200系より行き先表示が大きくなっている。
14:27に豊後竹田から42分かけて宮地まで行く。
利用客もそれほど多くなく、1両編成でも充分である。
宮地駅には「豊肥本線災害復旧資料館」が駅の待合室を利用して設置されていた。
JR九州のホームページによると豊後竹田から宮地の間の被害状況は、
線路内の土砂流入が55件、路盤の流失35件、さらには倒木や冠水など、
復旧にはかなりの労苦があったようで、
グチャグチャに折れ曲がったレールなどが展示されていた。
ここでの乗り換え時間は31分で、駅取材をしているとあそぼーい!が入線してきた。
大分駅での取材時間は17分だったが、
府内中央口(北口)の取材が出来なかったので時間は充分にあった。
ホームに上がって11:56発の別府からやってくる特急「九州横断特急3号」を待つ。
非常に説明的な愛称名で、国鉄時代から見てもなかなかない。
愛称名通り、日豊本線の別府から大分まで来て、豊肥本線で九州を横断、
熊本から鹿児島本線に入って八代から肥薩線に入って人吉まで行く。
別府から熊本までの特急「あそ」と熊本から人吉の「くまがわ」を統合する形で誕生した。
大分から豊後竹田まで約1時間の旅である。
モノクラスのため普通席で指定を取る。
赤く塗色変更されたJR四国から購入したキハ185系が充当されている。
キハ185系は国鉄末期に厳しい経営が予測されるJR四国のために造られた車両で、
2000系投入などで余剰になったものをJR九州が購入、
コーポレイトカラーである赤に塗色し、「あそ」や「くまがわ」、
2004年3月13日の九州新幹線鹿児島ルートの部分開業に合わせ、
特急「九州横断特急」にも従事されるようになった。
2両編成でグリーン席はなく、1号車が指定席、2号車が自由席となっている。
途中、中判田ですれ違い待ちの間に車両取材する。
13:00に豊後竹田に到着、駅取材してから駅前の「カレーハウスりんご屋」でカツカレー800円喰う。
先客もあって相席となったが、それでもカツカレーは美味かった。
会計を終えてから店主の女性が話しかけてきた。
豊肥本線が豊後竹田から宮地までが不通になっていたため、
ここで折り返す予定だったのだが、全通したためにこの先にも電車で行くという話や、
もともとここで下りる予定だったので、
敢えて特急を降りてここから先は普通列車で行くという話をした。
彼女は大学に通う息子が青春18きっぷで帰ってきたことがあるなどという話をしてくれた。
約20分くらい話したところで、女子高生たちが来店してきたのでここでお暇する。
ここではカレーパンのテイクアウトもやっていて、
彼女たちはそれを目当てにやってきたのだ。
豊後竹田での取材時間は1時間27分で、「りんご屋」でのお喋りを含めても、
少し時間を持て余してしまった。
ここから宮地までは2012年7月の九州北部豪雨によって運転見合わせをしていた区間である。
駅舎には立松和平氏がこの駅に書いた文の抜粋が掲示されていた。
「竹田の月」
「荒城の月」の作曲家瀧廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、
建物がすべて取り壊され荒れ果てた古城の中に、
すでに存在しない高楼を幻視したのだ。
日本人なら誰でも知っているこの曲が、
岡城と竹田に限りない気品を与えているのである。
私たちは竹田の人たちと、岡城ならぬ市内の長湯温泉で酒宴を張った。
竹田の人たちは宴の最後に、この「荒城の月」を声を揃えて歌うのである。
宴が果てた後、私は旅館にある茶室のような一人用の風呂にはいった。
頭をぶつけないように注意して湯の中に身体を沈めると、
目の前の夜空に満月が皓皓と輝いていたのであった。
この月にも香り高い気品が漂っていた。
立松和平
~「竹田の月」より抜粋~
ここからはキハ220系1両編成が充当されていた。
それのでのキハ200系より行き先表示が大きくなっている。
14:27に豊後竹田から42分かけて宮地まで行く。
利用客もそれほど多くなく、1両編成でも充分である。
宮地駅には「豊肥本線災害復旧資料館」が駅の待合室を利用して設置されていた。
JR九州のホームページによると豊後竹田から宮地の間の被害状況は、
線路内の土砂流入が55件、路盤の流失35件、さらには倒木や冠水など、
復旧にはかなりの労苦があったようで、
グチャグチャに折れ曲がったレールなどが展示されていた。
ここでの乗り換え時間は31分で、駅取材をしているとあそぼーい!が入線してきた。