rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

癒えることのない乾き、彷徨う魂、村上春樹”国境の南、太陽の西”

2012-12-30 16:14:14 | 本たち
人が、完全に満たされ、持続する充足感を得ることは出来るのだろうか?
おそらく、答えは”否”。

いつも心は渇いている、欠けているものを求めて当てもなく探し続ける。
それを意識しているものもいれば、意識せずに捜し求めるもの、またはそれを欲望のなせる業だと捉え違いするもの、あるいはただ生を過ごしてしまうものがいる。
生きている中で、欠けている部分に合致しそうなものとすれ違ったり、であったりしても、欠損部分にぴったりと隙間なく合うものなど存在はしないだろう。
欠けているものの姿は、人であったり、物であったり、仕事であったりと、さまざまな形をとる。
それらが、複合して欠損部分を埋めようとすることもあるだろう。
幸運にも、欠片が見つかったと喜び、充足感を得たと思っても、次第に埋めることの出来ない隙間や余計な部分が目に付いて、ぬか喜びに落胆し、絶望に囚われるのだ。
ときには、逆恨みのように、自分を落胆させたものを憎悪することもあろう。
人は不完全だ。
欠けた部分を補ってくれる対象としての人もまた不完全だ。
物や仕事などの場合は、特化した一面性を持つからさらに適合しにくいだろう。
この埋めることの出来ない欠けた部分を持ちながら、人は砂漠を歩いていく。
時折現れるオアシスは、蜃気楼でしかないのだ。

心の渇きに苛まれ、あてどなく彷徨い歩く人々は、いつも自分だけの砂漠に生きている。
まれに砂漠を過ぎる人がいても、相手の渇きに気付くこともないし、相手もこちらの渇きを思いやることもない。
互いの砂漠は、交わっているようで、実は交差したように見えただけのこと。
人の数だけ、物の数だけの異空間が存在しているのだ。
絶対の孤独が、全てを隔てている。
それでも、自分は存在し、他者も存在する。

その癒えない渇きと、絶対の孤独を抱いて、死に向かって歩き続けなくてはならない。
もし、欠けた部分を埋めてくれるものが見つかったと思っても、安心し、それに依存しないことだ。
ぴったりと合わさるものなどありはしないし、確かなものなど存在しない。
不完全な人間に、完全は望むべきもないのだから。