乙女と栞と小姫山・2
『乙女の転勤・2』
あいつが校長だとは思わなかった。
ブリトラ(伝統的英国風)の着丈の長いスーツを着ても脚が長く見える日本人のオッサンは少ない。
「あ、ああ……転任の先生ですか」
一秒ほどで観察し、保険の外交員などではないと気づいた洞察力と、表情のさりげない変え方は教師のそれではなかった。
しかし、こうやって校長室で渋茶一杯飲まされたあとに軽やかに入ってきて、校長の席についたからには校長なんだろう。乙女先生は少し驚いたが、顔に出るほどのウブではない。そつなく、他の三人の新転任同様に程よい会釈をした。前任校の校長ならビビる頬笑みも、ここではまだ普通の社交辞令ととられるようだ。
「やあ、みなさんお早うございます。校長の水野忠政です。職員会議まで時間がないので、ここでは簡単なご紹介にさせていただきます」
そういうと、校長は窓のカーテンを閉めて、パソコンのキーと、リモコンを同時に入れた。
――令和二年度、新転任者紹介――
タイトルがホワイトボードに映された。
「ええ、まず田中米造教頭先生。淀屋橋高校からのご転勤です。プロフィールはごらんになっている通りです。座右の銘は『小さな事からこつこつと』であります。我が校は大躍進中で、わたしはいささか暴走気味ですので、良いブレーキ役になっていただければと期待しております」
ホワイトボードの写真は明るい笑顔だが、乙女先生の前にいる本人は、お通夜明けの喪主のように暗い。落ち込んだ演技をしたときのイッセー尾形に似ていた。
「えー、わたくしは……」
「ご挨拶は、職会で。ここでは、とりあえず新転任同士ご承知していただいて、このプロフに誤りや、ご不満が有れば、おっしゃってください」
田中教頭は、無言でうなずいて座った。趣味は盆栽……と読んだところで、なぜか「凡才」の字が浮かんだ。同時に田中教頭がため息をもらしたのは偶然なのだが。
「以下の新転任の方々は、在職期間の長い順ですので他意はありません。佐藤乙女先生、地歴公民。モットーは……ハハ、いや失礼『ケセラセラ』であります。前任校は朝日高校。プロフは……職会でも同じものを映しますので、そのときご覧下さい」
乙女先生は、こんな使われ方をするとは思わず、A41600字の用紙いっぱいに書いてきた。名前の由来から、飼っている猫が靴下を食べて手術したことまで書いてあった。皆が驚いている。字数のせいばかりではないことは、本人も分かっている。
「次は、技師の立川談吾さんです。退職された鈴木さんの後任としてきていただきました。お願いのお言葉は『落語家ではありません』です」
立川は、ほとんど半ばまで禿げあがった頭をツルリと撫で、ニコリと笑った。その潔い禿げようが、前任校の校長の欺瞞的なバーコードと対極なので、乙女先生はおかしくなり、思わず立川と目が合ってしまい、互いに面白い人間らしいことを確認した。
「最後に新任の天野真美先生。英語科です。ご挨拶は『新任です、ビシバシ鍛えて下さい』です。潔いですなあ」
真美先生は生真面目に立ち上がり、深々と頭を下げた。下げすぎてテーブルにしたたかに頭をぶつけた。
「教師はね、そうやって早めに頭をぶつけておいた方がいいのよ」
乙女先生はそう茶化して、バンドエイドを出した。教頭の田中以外のみんなが笑った。
それから、事務長から校長に辞令が渡され、さらに校長から一人一人にそれが渡された。
「校長、そろそろ時間です」
ノックもせずに、筋肉アスパラガスが半身だけドアから体を現して言った。筋肉アスパラガスとは、その時の乙女先生の印象で、あとで首席の桑田だということが分かった。
渡り廊下を会議室に向かっていると、ガラス越しの中庭に、古墳が見えた。
「あら、かわいい古墳」
「あれは、ここの前身のS高校が出来るときに潰した古墳のレプリカです。縮尺1/4ですが、生徒たちはデベソが丘なんて呼んでますけどね」
校長は歩みをゆるめることもなく、横丁のポストを紹介するような無関心さで説明した……と、思ったら立ち止まって、乙女先生に言った。
「おっと、言い忘れてました。乙女先生、先生は三年生と一年生の渡りをやってもらうんですが」
「ええ、それが……」
「転任したての先生には申し訳ないんですが、一年の生指主担をやっていただきたいのですが……」
「ええ、かまいませんよ。前任校も生指でしたし」
「それは、どうも、ありがとうございました」
校長は、心なしホッとしたように見えた。この学校の偏差値は六十に近く、前任校よりもワンランク高い。まあ、その分知恵の回ったワルはいるかもしれないが、今までの経験から言ってもどうってことはないだろう。
それよりも、この学校が出来る前のS高校の時に潰された古墳の方が気がかりだった。地歴公民などという訳の分からない教科であるが、専門は日本史である。ちゃんとした現地調査はなされたんだろうか? 被葬者のお祀りはちゃんとしてあるんだろうか、その方が気になった。
会議室に入って目に入ったのは、教職員の顔ではなかった。
そんな緊張をするほどウブなタマではない。
窓から見える春らしいホンワカとした雲が、家に一人残してきた猫のミミにそっくりなことであった。
さすがに民間校長だけあって、職員会議の流れはスムーズだった。新転任の挨拶は、さっきのスライドを使ってバラエティー番組のように楽しく早く済まされた。
乙女先生の年齢は伏されていたが、その見かけと経歴のギャップには、職員のみんなが驚いたようである。
ここだけの話しであるが、乙女先生はこの五月で五十路に手が届く。しかし居並ぶ職員には三十前後にしか見えない。
――これでも地味にしてきたんだけどなあ、保険屋のオバチャンと思われる程度には……。
そして、なにより、A4の自己紹介であった。同じ物がプリントされて配られている。むろん個人情報に関わる部分は抜かれていたが、飼い猫のミミが靴下を食べたところでは、みんなクスクス笑っていた。で、一年の生指主担と紹介されたときには、皆から、同情のようなため息が漏れた。
新任の真美ちゃん(乙女先生は、そう呼ぶことに決めていた)がバンドエイドを貼った頭で、顔を真っ赤にして挨拶したときは、暖かい笑いが起こった。
今度は、真美ちゃんはテーブル頭をぶつけることは無かった。
ただ、乙女先生の手のひらが痛くなった。真美ちゃんがテーブルに頭をぶつける寸前に、右の手のひらをクッションに差し出したからである。
―― 痛アアアアアアアア!!!!! ――
乙女先生は、心で叫んだ。それがコントのように見えたのだろう。会議室は再び笑いに満ちた。
しかし、田中教頭は笑わなかった。そして、もう一人笑わず、腕組みし、苦虫を潰したような顔をしていた男がいた。
それが、生指部長の梅田である。その時の乙女先生は「筋肉ブロッコリー」と思えただけである。この男と、いろんな意味で取っ組み合いになるのは、もうしばらく後のことである。
窓から見える雲がミミから太りすぎで毛を刈り込む寸前の羊になったころ、職員会議が終わった。
そして、小姫山青春高校での乙女先生の新しい生活が始まった!