魔法少女マヂカ・192
ここに落ち着こう。
新畑が指差したのは坂道の中ほどにある喫茶店だ。
震災直後に開いている喫茶店などあるはずも無いだろうが、凌雲閣の地下に出入り口があったところから、おそらくは霧子の心象風景、あるいは異世界……いや、礼法室の上に楼閣が存在していたところからおかしい。おかしい世界だ。
しばらくは流されるままに見ておくしかないか。
喫茶店には、わたしたちの他にもお客はいるのだが、視野の端に捉えている分には普通に見えているが、視線を向けると解像度が落ちたようにボンヤリしてしまう。
仕方がない、明らかに見えるところだけを見て、聞こえるだけのことを聞こう。
一階にも空席はあるのに、新畑は当然のように二階の窓際席に誘った。
席に着くと、すでにアイスコーヒーが三つ置いてある。グラスの表面が汗をかいたようになっているのにコースターは濡れていなくて、たった今置かれたようだ。
窓の外は通りを挟んで古本屋がある。チラリと見える本棚には洋書や大学の教養課程で読むような本が並んでいて、近くに大学か旧制高校がある気配。
ひょっとして、団子坂か? すぐ南には東京大学とかがあるぞ、この時代は東京帝大か。
「そっちに気を取られると別の物語が始まってしまう。悪いが、僕の話に集中してほしい」
「ああ、すまなかった」
ブラインドの紐を操作して閉じると、テーブルは天井のランプが照らし出すセピア色に落ち着いた。
「霧子さん、君には覚醒してもらいたいとは思っているけど、無鉄砲に震災直後の東京を見るべきじゃない」
「はい、でも、開けられる扉はこれしかなかったの。いつもみたいに迎えに来てくださるのを待っていたら、いつのことになるか分からなかったし。わたし、やっと決心したんです。父や兄になんと言われても、自分の目で確かめて行動しなくてはいけないって」
「うん、それは嬉しい。でも、震災直後の惨状だけに気をとられていては、息の長い活動はできないよ。君のように覚醒できる女性は少ないんだから」
こいつは主義者なのか? しかし、こんな妖同然に異世界めいたところに現れるのは、そもそも、こいつが化け物である証拠だろう。
「きのうは、ご先祖の夢をみたでしょ?」
「ご存知なのですか?」
「貴女の事は何でも知っている。大事な人ですからね」
霧子のやつ赤くなった……この男、何を企んでいるんだ。
「高坂光孝公の夢を見てどうだった?」
「伏見大地震の後に真っ直ぐ伏見城に駆けつけておられました、自分の屋敷や、近隣の御大名や庶民の災難には目もくれずに、天守の崩れた跡に立っている千成瓢箪の馬印の許に」
「それで?」
「ちょっと、おべっかが過ぎるように見えたんですけど、光孝公は、わたしの頭をグシャっと撫でて、こうおっしゃいました『この天下の大変に、一番大事なことは、天下が揺るがぬことだ。たとえ石垣は崩れ天守が倒れようと、天下の礎は微動だにしておらぬことを示さなけれなならぬのじゃ。天下様の御威光に揺るぎはなく大丈夫であることが復興への力になるのじゃ。天下様が御無事お元気に采配を振るわれてこそ、諸侯も天下万民も、秩序をもって復興に力をつくそうと思うのだ。我らが気ままに己が不幸だけ目を向けていては、この世から秩序が無くなる。そうは思わぬか』と……」
「それで、外に出てみようと言う気になったんですね?」
「ええ……」
「不足なようですね」
「秀吉は好きじゃありません」
「ハハ、ぼくは好きだけどね。ああ、そうだ、今日は『赤い鳥』の発売日だ。霧子さん、申し訳ないが、向かいの本屋で買ってきてくれないだろうか。いや、妹が楽しみにしているんだけど、どうも、大の男が買いに行くのは恥ずかしくって……」
そう言うと、新畑は財布から一円札を取り出した。
「まあ、いくらわたしが世間知らずでも雑誌の値段くらい知っていましてよ。一円なんて出したら本屋の御亭主はお釣りにこまりますよ」
「じゃ、お釣りが間に合うまで、他の雑誌も買ってごらんなさい」
「他の雑誌も?」
「霧子さんの傾向が知りたい」
「まあ、ご親切なのか意地悪なのか……」
そう言いながら、霧子は嬉しそうに階段を下りて、向かいの本屋に向かった。
「さて、これで、あの本屋で殺人事件は起こらない」
「あなた、やっぱり明智小五郎?」
「あれが生まれるのは三年先ですよ。実は、君にも頼みがるんだ、魔法少女くん……」
新畑の目が怪しく光って、思わず身構えてしまうわたしだった……。
※ 主な登場人物
- 渡辺真智香(マヂカ) 魔法少女 2年B組 調理研 特務師団隊員
- 要海友里(ユリ) 魔法少女候補生 2年B組 調理研 特務師団隊員
- 藤本清美(キヨミ) 魔法少女候補生 2年B組 調理研 特務師団隊員
- 野々村典子(ノンコ) 魔法少女候補生 2年B組 調理研 特務師団隊員
- 安倍晴美 日暮里高校講師 担任代行 調理研顧問 特務師団隊長
- 来栖種次 陸上自衛隊特務師団司令
- 渡辺綾香(ケルベロス) 魔王の秘書 東池袋に真智香の姉として済むようになって綾香を名乗る
- ブリンダ・マクギャバン 魔法少女(アメリカ) 千駄木女学院2年 特務師団隊員
- ガーゴイル ブリンダの使い魔
※ この章の登場人物
- 高坂霧子 原宿にある高坂侯爵家の娘
- 春日 高坂家のメイド長
- 田中 高坂家の執事長
- 虎沢クマ 霧子お付きのメイド
- 松本 高坂家の運転手
- 新畑 インバネスの男