ほんとうに、やっちゃったんだ……
家出をそそのかした大学生は、家出カバンをぶら下げたあたしを見て、こう言った。
あいつは、あたしがホントに家出するなんて思ってもいなかったみたい。驚いたその顔には、正直に「迷惑」の二文字が浮かんでいた。
抱いていた恋心は民宿の屋根越しに見える夕陽よりも早く沈んでしまった。
ああ、こいつもか……。
そうなると、持ち前のアツカマシサ。
「あんたの親類かなんかってことにしてさ、あたしの働き口見つけてよ。ウンと言わなきゃ警察に行くわよ。あんたがあたしを拐かしたってことで。一応未成年の女子高生なんだからね!」
気合いが入りすぎたせいか、涙が溢れてきた。
やつは、善良そうな迷惑顔で、その春にできたばかりのペンションを紹介してくれた。
即決で、住み込みのバイトが決まった。
やつは、地元の旧家のボンボンで、金と力はない分、あたし以外の信用だけはあったようだ。
そのペンションのオーナー夫婦の他は、バイトの無口なオニイサンがいるだけで、夏のシーズンを目前に、人手、それもペンションの看板になるような女の子を求めて……ヘヘ、看板というのは、あたしの想像なんだけどね……。
あら、電話。
ああ、やっぱりやるんだ……あ、ごめん。どこまで話したっけ?
あ、あたしがペンションで働くとこまでだったわね。
でも幸子さん、こんな話が参考になるんですか?
小説のネタにされるのはけっこうですけど、この程度の家出娘の話って、ザラにありますよ……え、幸子さんの予感、由香のは特別? 看板娘? よして……って、あたしが言ったんだっけ?
そのペンションのバイトで知り合ったのが田中さん……。
田中さんは、世界中のいろんなとこで働いて、いろんな人に出会って、いろんな名前を使って、いろんなことをしてきた人。
どうやら、危ない橋の一つや二つ、渡ったり壊したりしてきたみたい。
と言っても、スパイなんかじゃない。あくまで人の噂。
とにかく無口。
ひげ面で、無愛想で、おっかない感じ。あの旧家のボンボンを懐かしく感じたぐらい。
ある日、あたしはオーナーと田中さんと三人で山菜を採りに里山に入った。
その時は、まだ田中さんが苦手だったんで、田中さんとは距離とって歩いていたんだ。
そして、そのことが仇になって、山の中で迷子になってしまった。
茂みの向こうで、カサリと動くもの!?
てっきり、前を歩いているオーナーかと思って声を掛けたら……親子連れの熊だった。
「キャー!」
「ウオー!」
「アオー!」
と、一人と二匹で叫んだところまでは覚えてるんだけど……。
気がついたら、オーナーが心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫かい?」
と、オーナー。
「はい……」
と、あたしが応える。
すると、オーナーの後ろで、つまらなさそうに立っていた田中さんが、ぶっきらぼうに言った。
「じゃ、いこうか」
そう言って振り返った背中は、背負子(しょいこ)が吹き飛び、熊の爪のカタチに血が滲んでいた……。
「今日は、そこまでにしときまひょ」
珠生先生の言葉に、由香さんはズッコケたような顔をした。
「あの、話はこれからなんですけど……」
「お楽しみは、次ぎにとっときましょ。うちも、なんや胸がワクワクしてきたわ」
「あたしも、そうです。田中さんが背負子してたの、すっかり忘れてました。背負子してなかったら、あんな傷じゃすみませんものね」
「由香さん、あんたさん、この話しすんのん初めて?」
「ええ、記憶の底に沈めていましたから」
「幸子さんて、だれ?」
「ああ、バイトでいっしょになった人……さっき思い出したんですけど」
「で、その先は、まだ思い出しまへんやろ」
「はい……ここで先生に暗示を掛けられて、少しずつ思い出すんです。十七歳に戻って」
「言うときますけど、青春には光と陰がおます。やがて陰のとこも出てくると思います」
「鬱の原因ですか?」
「わてにも、よう分かりまへん。まあ、解きほぐした結果鬼が出るか蛇が出るか。ま、ここ以外では、あんまり無理に思い出そとせんように」
この時、ノックして研究員の理子さんがタコ焼きを持って現れた。
「ただいま、ご注文のタコ八のタコ焼きで~す!」
女四人で、タコ焼きのお茶会になった。今日の元気は、前よりも長続きしそうだ。
「貴崎先生の鬱のきっかけって、生徒の自殺なんですよね」
「それは、きっかけやろね。死んだ生徒と、あの人との接点はあれへん。たまたま現場に居合わせただけや。それに、あの人は過去にも担任してた生徒に死なれてる。その時は症状は出てへんさかいな……」
「先生、貴崎先生、今日は元気に門を出て行きましたよ!」
「ま、今日はまあまあかな……」
私は、振り返って最後のタコ焼きを食べようとした。珠生先生に先を越され、私の爪楊枝は虚しく空を切った……。