『第二章 高安山の目玉オヤジと青いバラ5』
基礎練習は、少しずつ難しくなってきた。
まず、無対象メソード。
縄跳びまでは、みんな楽しげにやれたけど、ボールから戸惑いはじめた。
手にするところまではできるんだけど、互いにキャッチボールしはじめると、ボールが途中で見えなくなってしまう。大橋先生は、野球のボール、テニスボール、バレーボールなど様々な見えないボールをよこしてくる。
先生が投げる時はなんのボールか、たいてい分かるんだけど、自分の手元にくる寸前で消えてしまう。まあ、バレーボールがなんとかできるかなあってとこ。
三日もすると、八人で輪になって、トスバレーができるようになった。しかし、無対象というのは集中力がいるもので、このトスバレーも一分もやると、ボールが消えてしまう。
玉子を割って、目玉焼きを作った。案外無対象で玉子を割るのは難しかった。
バケツを持ったり、雑巾をしぼって机を拭いたり。
そうそう、コーヒーを飲むのが、難しいってか、おもしろい。
だれも最初はできないんだけど、その「できてない」のを見てるのがね。
口にカップを持っていくまでにカップを壊したり。飲めずに、口の脇からこぼれていたり。ドバっとコーヒーをかぶってしまったり。とにかく人の失敗はおもしろく。自分の失敗は分からないものだ。
極めつけは、お風呂。
これは、無対象で服を脱いだり着たりをやった、その明くる日に予告無しにやらされた。
「タロくん、風呂入ってみぃ」
タロくんとは、唯一の男子部員、山田太郎先輩のことである。
密かに自分の名前を「平凡すぎる」と悩んでいる人。
小柄でブッキチョな先輩だけど、わたしは好きだ。
「山田太郎って、平凡じゃないですよ。わたし今まで山田太郎って名前の人に会ったことないですよ」
ごく当たり前のことを言うとひどく喜んでくれた。この人の名前を聞いて覚えられない人はいないだろう。
稽古も器用ではないが、いわれたことは「はい!」と言って素直にやる。
この「お風呂のメソード」も言われるとすぐに始めた。でも、なんだか、ムキになったような生真面目さ。股ぐらを洗うときなんか、「ハハハ」と、やけくそみたいに笑っていた。
クミちゃんこと一年の諸田久美子は、脱衣場と設定された場所で立ちすくんでしまった。「うん、合格。もうええよ」
「でも、あたし、なんにもできてません……」
と、クミちゃん。
「いいや、合格点や。次はるか!」
近所の気安さか、玉串川の出会いのまんまというか、わたしは呼び捨て。
脱衣場のゾーンに入っただけで、胸がドキドキしてきた。
無対象だから、脱ぐといってもいわば「真似」であって、ほんとに裸になるわけではない。無対象のスカートを脱ぐ。ホックを外せばストンとスカートは落ちる。感覚的には本当に「落ちた」
次にブラウス。これって案外全身運動……次に、下着に手がかかる。
そこで手が止まってしまった。クミちゃんのときのように「合格」と声がかからない。わたしは顔を赤くしてフリ-ズしてしまった。
「よっしゃ、分かったか?」
「え……」
「無対象やけど、恥ずかしかったやろ。その恥ずかしいという気持ちになれたら合格や。無対象もきちんとできると、それに伴った感情が湧いてくる。それが分かっただけで合格や。むろんプロの役者やったらルンルンでできならあかんけどな。せやろ、あんなヤケクソな顔して風呂入るやつおらんやろ。な、タロくん」
「は、はい」
タロくん先輩は頭をかいた。
「で、ひとつ分かったな。役者は羞恥心の壁を越えならあかん……いつの日か、君らもな」
そのいつの日の前に二年の西尾さんと諸田さんが辞めていった。少し寂しかった。みんなも……。
でも大橋むつおは平気なコンニャク顔だった。
「人間関係はかけ算や」
「え……?」
乙女先生がタコ焼きと、も一つの紙袋をぶら下げて久々に現れた。
「ほんなら、タコ焼き食べながら話そか」
さっそく一つを口に放り込み、思わぬ熱さに目を白黒させた。しかし大橋先生は器用に口の中でタコ焼きをホロホロさせて、ちゃんと咀嚼して飲み下した。
――さすが大阪のオッサン!――
「みんなも冷めんうちに、おあがり」
チェシャネコの乙女先生が勧めた。
で、あっちこっちでホロホロ……わたしはフーフーと冷ました。
「人間は、ものごとに、やる気とか興味とかの数字を持ってる。これは人間性とは関係ない。ホロホロ……」
「で、相手の持ってる数字がゼロとかマイナスやと、掛け合わせて出てくる答えは?」
乙女先生が引き受けて、三つ目のタコ焼きに手を出そうとしていた二年のルリちゃんこと早田瑠璃子に声をかけた。
「あ、ゼロかマイナスです。ホロホロ……」
「そこに、義理とか、付き合いとかの変数が加わる」
と、大橋先生。
「家庭事情とか、アルバイトいう変数もあるなあ……」
と、乙女先生。
「答えが出てくるのに、時間がかかる」
二人の先生の間には、なにか了解事項があるようだ。タコ焼きの数が、ちょうど人数で割り切れることに気が付いた。
わたしは、鋭いのか、みみっちいのか自分でも判断がつきかねた。