徒然草 第四十七段
或人、清水(きよみず)へ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応へもせず、なほ言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹立てて「やや。鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君の、比叡山に児にておはしますが、ただ今もや鼻ひ給はんと思えば、かく申すぞかし」と言ひけり。
有り難き志なりけんかし。
まずは解説から。
ある人(兼好自身かも)が、知り合いの尼さんを連れて、京都の清水さんにお参りにいく途中、この尼さんが、しきりに、こう呟く。
「くさめ……くさめ……くさめ……」
で、その人は、尼さんに聞いた。
「オバチャン、なんで、そんなに『くさめ…くさめ……』て言うのん?」
それでも、尼のオバチャンは「くさめ……」をやめない。
で、その人は、何度も、その尼のオバチャンに聞いた。そして、ようやく答えが返ってきた。
「わたいが、むかし世話してたボンボンが、比叡山(延暦寺、日本の仏教の卸元みたいなところ)に稚児、分かりまっか。坊主の見習いの見習い。相撲でいうたら序の口。野球でいうたら、新人の二軍選手。落語でいうたら前座。物書きでいうたら大橋むつお。そのお稚児はんにならはりましたよって、風邪でもひいて病気にならはったら、あかんさかいに言うてますのや」
なかなか、見上げた心がけ。ありがたい話やなあ。
と、こんな内容でありますが、さらに解説がいります。
比叡山延暦寺は、シキタリにうるさいところで、修行中に余計な言葉は、独り言であっても言ってはいけない。
当時は、クシャミをすると寿命が縮むといわれ、クシャミをしたら「くさめ」というお呪いをいうことが普通でありました。
「くさめ」というのは「糞はめ」が転訛したもので、今の言葉では「糞くらえ」になります。
今は、あまり使いませんが、縁起でもないことを誰かがいうと「つるかめ、つるかめ」と言うことがあります。怖い話をきくと「くわばら、くわばら」になる。これと同じですね。
で、この「くさめ」は、クシャミをした本人でなくとも、側にいっしょに居る人が言ってもいいことになっていました。まあ、小さな親切といったところでしょう。
それを、この尼のオバチャンは、遠く比叡のお山にいる稚児のボンボンのために代わりに言ってあげていたのであります。比叡山は、湿気と寒さがひどく、風邪をひいたり、それがもとで肺炎なんかになる者もいたらしいです。しかし、修行中の身。たとえ風邪の前兆であるクシャミをしても、「くさめ」のお呪いが言えないのですねえ。
で、この人は思った。
なかなか、見上げた心がけ。ありがたいことやなあ……と。
今の時代、こういうことはあまり見聞きしなくなりました。「くさめ」にしろ「つるかめ」にしろ「くわばら」にしろ。これが通じる前提には、仲間というかコミュニティーの存在が前提になると思うのですが、どうでしょう。
関西では、あまり知られていませんが、関東では「えんがちょ」という言葉があります。
『千と千尋の神隠し』の中で、千尋が、ハクの体内から出てきた呪いを踏みつぶし、カマ爺と千尋の会話にこんなのがあります。
カマ爺 エンガチョしろエンガチョ!
千尋 (両の手で輪っかをつくる)
カマ爺 切った!(手で、千尋の手の輪を切ってやる)
これは、関東の子どもの間で、たとえば犬のウンコを踏んだり、毛虫を踏み潰したときなどに友だち同士でやったんだそうです。友だちの中で、なにかのイサカイがあり、特定の子を仲間はずれにするときも、この「えんがちょ」をやることもあったとか。大阪人であるわたしには、この「えんがちょ」が、まだ現役の言葉なのか、悪い意味で使われているのかは分かりません。でも、コミュニティーの存在があって生きている言葉であると思うのですが、どうでしょう。
で、現代社会では、この種の言葉が減ってきた、または変質してきたように思います。
現代社会で残っているのは、千羽鶴を折ってあげることや、女の子が、好きな男の子にミサンガを編んであげることに変形している。または、募金をつのったり。
それらのことは、けして悪いことではないでしょう。しかし、なにか心理的な構えが、そこにはあるような気がします。
ミサンガを編んであげるのは、そこにいくまでの関係の発展……つまり、お互いが相手を異性として認め合うという手間のかかるプロセスが必要で、また、個人の間の、ひどく狭い関係の間に成り立つことでもあります。
千羽鶴や募金は、それを実行するために仲間同士でアラタマッタ話をした上で行われることで、「くさめ」や「えんがちょ」のように、反射的に出てくるものではありません。
そういうところに、なにか寂しいものを感じるのですが、考えすぎでしょうか。