愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 127 飛蓬-36 小倉百人一首:(文屋康秀) 吹くからに

2019-12-08 10:04:50 | 漢詩を読む
 (22番) 吹くからに 秋の草木の しをるれば
      むべ山風を 嵐といふらむ

<訳> 山からの風が吹くと、すぐに秋の草木がしおれてしまうので、なるほど、だから山から吹き下ろす荒々しい風を嵐と言うのだろう。(板野博行)

地球温暖化の影響もあってか、やや遅く、関西では今、紅葉も盛りを過ぎつつあります。“晩秋”の頃 と言うにふさわしい季節でしょうか。丁度今の時期を詠った歌を翻訳の対象に選びました(下記参照)。

晩秋の“野分きの風”に曝された草木の葉がすぐにも萎れていく。その情景を念頭に、山から吹き下ろす強風は、まさに“嵐”の字の起源と言えるようだ と。厳冬の到来を感じながらも、機知に富んだ遊び心で締めています。

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<漢字原文と読み下し文>   [下平声十三覃韻]
季秋的暴风 季秋(キシュウ)の暴风(ボウフウ)
季秋烈烈北風厲, 季秋 烈烈(レツレツ)として北風厲(ハゲ)し,
雲散無禽蕭索潭。 雲(クモ)散り 禽(キン)無く蕭索(ショウサク)たる潭(タン)。
一刮草木忽枯萎, 一刮(イッカツ)すれば草木 忽(タチマ)ち枯萎(カレシボ)む,
誠然山風被称嵐。 誠然(セイザン) 山風 嵐(アラシ)と称さる。
 註]
  烈烈:激しいさま。      禽:鳥類。
  蕭索:寒々とした。      潭:水を深く湛えたところ。
  刮:(風が)吹く。      誠然:宜(ムベ)なるかな、なるほど。
  嵐:晩秋にみられる野分きの風、暴风。
※中国語の“嵐”は、“もや、山中に立ち込める水蒸気”を意味する。ここでは日本語の“嵐(あらし)”の意味を活かした。元歌の重要な点の一つが“嵐”の字自体にあり、それ失くしては、歌の面白みが失われるからである。

<簡体字とピンイン>
 季秋的暴风 Jìqiū de bàofēng
季秋烈烈北风厉, Jìqiū liè liè běi fēng lì,
云散无禽萧索潭。 yún sàn wú qín xiāosuǒ tán
一刮草木忽枯萎, Yī guā cǎo mù hū kūwěi,
诚然山风被称岚。 chéngrán shān fēng bèi chēng lán.

<現代語訳>
 晩秋の野分の風
晩秋の野分の風は非常に激しく吹き、
雲は足早に散じ、池では鳥の姿も消えて寒々としている。
その風が一吹きするや、忽ち草木も萎(シオ)れてしまう、
この荒々しい山風が“嵐(荒らし)”と呼ばれるのも、宜なるかなである。
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作者・文屋康秀(? ~885?)は、平安初期の官人、歌人である。その生没年の詳細は不明である。官人としては必ずしも高位には至らなかったようですが、歌人としては六歌仙(後述 追記参照)の一人に選ばれていて、有名であった。

ただし、勅撰和歌集の、『古今和歌集』には4首、『後撰和歌集』に一首が収められており、多くはないようです。さらに『古今和歌集』の2首は、子の朝康(百人一首37番、以下百首)の作ではないかとされているようです。

官人としては、山城大掾(ダイジョウ)(877)縫殿助(ヌイドノノスケ)(880)に任官したことが伝えられているようです。三河国司・三河掾として赴任したことがあるが、その年代は不明である。なおその折に、小野小町を一緒に行くよう誘ったという逸話がある。

両人は、恋人同士であったらしく、彼の誘いに対して、小野小町は次のような歌を返している と:

「わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘う水あらば いなむとぞ思う」
[<訳> こんなに落ちぶれたつらい身なので、わが身を浮草として根を断ち切って、誘う人さえあれば、どこにでも一緒について行こうと思います。]

果たして、小野小町が実際について行ったかどうかは不明である と。

註]の中で記したように、歌の大事な点の一つは、“嵐”という字自体に関わることと言えます。したがって漢詩に敢えて“嵐”を詠いこみ、さらに日本語の意味を活かすことにしました。漢-和折衷の漢詩となりました。その是非は今後の課題と言えよう。

[追記]
六歌仙とは、『古今和歌集』(905~913完)の仮名序に、紀貫之が優れた歌人として名前を挙げた6人の歌人をいう。僧正遍昭(百首12)、在原業平(百首17)、文屋康秀、喜撰法師(百首8)、小野小町(百首9)および大友黒主の六人である。なお大友黒主以外は、歌が百人一首に取り上げられています。
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1 コメント

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Unknown (Rumi)
2019-12-12 20:41:24
確かに、この句のポイントは下の句ですね・・・この言葉遊び。
日本語は漢字を使用し、一つの漢字に幾つもの読み方をあてがい、しかも意味付き。
この句の様な言葉遊びだったり、わざと「間違った」漢字を使って二重の意味を持たせてみたり、言葉遊びには事欠かないのが「日本語」だな、とつくづく思います。
漢字の起源の中国でも、漢字を使って言葉遊びをする風習(?)なんかはあるんですかね?
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