(12番) 天つ風 雲の通い路 吹き閉じよ
をとめの姿 しばしとどめむ
僧正遍照
<訳> 空吹く風よ、天女が行き交うという雲の中にある道を吹き閉じておくれ。この美しく舞う乙女たちの姿を、もう少し下界にとどめておきたいと思うから。(板野博行)
豊明節会(トヨノアカリセチエ)の宴会における舞姫(乙女)たちに心底惚れこんだ作者は、「乙女たちよ、今しばらく舞台から姿を消えないでくれ!」と、懇願の気持ちを詠っています。“乙女たち”を“仙女”に見立てて。
令和天皇即位後初めて、先月(11月)に催された新嘗祭(ニイナメサイ)と繫がりのある歌を取り上げ、七言絶句にしてみました。下記ご参照ください。新嘗祭および豊明節会については、その概要を後述しました。この歌の理解に役立つと思われます。
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<漢字原文と読み下し文>
豊明節会宴所祝賀秋収穫 秋の収穫を祝賀する豊明(トヨノアカリ)節会(セチエ)の宴
[上平声五微韻]
豊明節宴何愉快、 豊明節会の宴(ウタゲ) 何ぞ愉快たる、
窈窕舞姿無縫衣。 窈窕(ヨウチョウ)たる舞姿 縫(ヌイメ)無しの衣(コロモ)で。
天風刮閉雲里路、 天の風よ刮(フ)いて雲の里(ナカ)の路を閉ざしてくれ、
為仙女且止回帰。 仙女の回帰(カエリ)を且(シバラ)く止(トド)める為に。
註]
豊明節宴:天皇が催す秋の収穫祭で、旧暦11月に催される”五節”第一の新嘗祭の後、その最後の行事として行われる“豊明節会”の宴。
窈窕:美しくしとやかなさま。
無縫衣:天女の衣は縫い目がないという。宋代の『太平広記』にある故事。ここでは無縫の天衣を着た天女のこと。
刮:(風が)吹く。
雲里路:雲の中にあるとされる天上へ通ずる路。
<現代語訳>
秋の収穫を祝う豊明節会の宴
秋の収穫祭である豊明節会の宴 何と楽しいことであったことか、
縫い目のない天衣を纏った天女たちの麗しく淑やかな舞姿。
天空を吹く風よ、雲の中にある天への通路を閉ざして、
天女たちの帰りを止めて、今しばらく目を楽しませてくれ。
<簡体字およびピンイン>
丰明节会宴所祝贺秋收获 Fēngmíng jié huì yàn suǒ zhùhè qiū shōuhuò
丰明节宴何愉快、 Fēngmíng jié yàn hé yúkuài
窈窕舞姿无缝衣。 yǎotiǎo wǔ zī wú fèng yī.
天风刮闭云里路、 Tiān fēng guā bì yún lǐ lù,
为仙女且止回归。 wèi xiānnǚ qiě zhǐ huíguī.
xxxxxxxxxxxxx
題の和歌は、豊明節会に招かれた僧正遍昭(816~890)が、宴の“五節(ゴセチ)の舞”で催された乙女たちの舞姿に心を奪われたことを詠った歌である。
先に令和元年の新嘗祭の催しのニュースは新聞などで報道されました。秘儀であるとのことで、現代の儀式が如何なるものであったかは、知る由もありません。以下は昔の行事として、歌の理解に役立つと思える範囲で概観します。
奈良時代以前から、季節の節目に定期的な行事として催されてきた“節句”があり、時代によって変遷しながら現代に至っているようです。中国の陰陽五行説の影響もあって、特に“5節句”が重要な行事として催されていた と。
“天つ風”が書かれた平安時代の“5節句”には、元日(1月1日)、白馬(アオウマ、1月7日)、踏歌(1月16日)、端午(5月5日)および新嘗祭(11月中の辰の日)がある(いずれも旧暦)。中でも、新嘗祭は、年の締めであるとともに、秋の収穫を祝う行事として位置づけられている。
嘗ての新嘗祭は、今日「勤労感謝の日」として国民の祝日となっている。しかし「勤労感謝の日」とは別に新嘗祭の行事は今に生きていて、天皇家や諸神社でも、今日なお執り行われている。
諸節句の日には儀式が執り行われ、その翌日には“節会(セツエ)”と称される饗宴が催されていた。新嘗祭にあっては、特に“豊明節会”と呼ばれていて、2日にわたって宴が催され、五節(ゴセチ)の舞などが行われる。
“豊明節会”では、「列席された天皇が、神々に新穀を捧げるとともに、自らも一緒に召し、また群臣にも賜り、合わせて酒饌(シュセン、酒肴)も供された」と。一年の豊穣を感謝して、年を締める行事であった。
作者について触れておきます。僧正遍昭は、桓武天皇(第50代;在位781~806)の孫という高貴な生まれでありながら、出家して天台宗の僧侶となり、僧正の職まで昇った僧侶である。
また歌僧の先駆の一人と評されるほどの歌人であり、六歌仙および三十六歌仙の中の一人である。『古今和歌集』(16首)以下の勅撰和歌集に35首採入されている と。
「僧正遍昭の歌は、歌の風体や趣向はよろしいが、真情に乏しい」と、紀貫之は『古今和歌集』の序で評しているようですが。何の!!何の!!“天つ風”の歌から読めるように“生臭坊主”(?)に近い風情が感じられます。
尚、僧正遍昭の歌は、出家前後で歌風が変わってきたと言われています。出家前には“天つ風”のように、情感溢れる歌を書いていた。出家後には物事を知的・客観的に捉える歌が多くなった と。百人一首に選ばれた“天つ風”は、出家前の作ということである。
をとめの姿 しばしとどめむ
僧正遍照
<訳> 空吹く風よ、天女が行き交うという雲の中にある道を吹き閉じておくれ。この美しく舞う乙女たちの姿を、もう少し下界にとどめておきたいと思うから。(板野博行)
豊明節会(トヨノアカリセチエ)の宴会における舞姫(乙女)たちに心底惚れこんだ作者は、「乙女たちよ、今しばらく舞台から姿を消えないでくれ!」と、懇願の気持ちを詠っています。“乙女たち”を“仙女”に見立てて。
令和天皇即位後初めて、先月(11月)に催された新嘗祭(ニイナメサイ)と繫がりのある歌を取り上げ、七言絶句にしてみました。下記ご参照ください。新嘗祭および豊明節会については、その概要を後述しました。この歌の理解に役立つと思われます。
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<漢字原文と読み下し文>
豊明節会宴所祝賀秋収穫 秋の収穫を祝賀する豊明(トヨノアカリ)節会(セチエ)の宴
[上平声五微韻]
豊明節宴何愉快、 豊明節会の宴(ウタゲ) 何ぞ愉快たる、
窈窕舞姿無縫衣。 窈窕(ヨウチョウ)たる舞姿 縫(ヌイメ)無しの衣(コロモ)で。
天風刮閉雲里路、 天の風よ刮(フ)いて雲の里(ナカ)の路を閉ざしてくれ、
為仙女且止回帰。 仙女の回帰(カエリ)を且(シバラ)く止(トド)める為に。
註]
豊明節宴:天皇が催す秋の収穫祭で、旧暦11月に催される”五節”第一の新嘗祭の後、その最後の行事として行われる“豊明節会”の宴。
窈窕:美しくしとやかなさま。
無縫衣:天女の衣は縫い目がないという。宋代の『太平広記』にある故事。ここでは無縫の天衣を着た天女のこと。
刮:(風が)吹く。
雲里路:雲の中にあるとされる天上へ通ずる路。
<現代語訳>
秋の収穫を祝う豊明節会の宴
秋の収穫祭である豊明節会の宴 何と楽しいことであったことか、
縫い目のない天衣を纏った天女たちの麗しく淑やかな舞姿。
天空を吹く風よ、雲の中にある天への通路を閉ざして、
天女たちの帰りを止めて、今しばらく目を楽しませてくれ。
<簡体字およびピンイン>
丰明节会宴所祝贺秋收获 Fēngmíng jié huì yàn suǒ zhùhè qiū shōuhuò
丰明节宴何愉快、 Fēngmíng jié yàn hé yúkuài
窈窕舞姿无缝衣。 yǎotiǎo wǔ zī wú fèng yī.
天风刮闭云里路、 Tiān fēng guā bì yún lǐ lù,
为仙女且止回归。 wèi xiānnǚ qiě zhǐ huíguī.
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題の和歌は、豊明節会に招かれた僧正遍昭(816~890)が、宴の“五節(ゴセチ)の舞”で催された乙女たちの舞姿に心を奪われたことを詠った歌である。
先に令和元年の新嘗祭の催しのニュースは新聞などで報道されました。秘儀であるとのことで、現代の儀式が如何なるものであったかは、知る由もありません。以下は昔の行事として、歌の理解に役立つと思える範囲で概観します。
奈良時代以前から、季節の節目に定期的な行事として催されてきた“節句”があり、時代によって変遷しながら現代に至っているようです。中国の陰陽五行説の影響もあって、特に“5節句”が重要な行事として催されていた と。
“天つ風”が書かれた平安時代の“5節句”には、元日(1月1日)、白馬(アオウマ、1月7日)、踏歌(1月16日)、端午(5月5日)および新嘗祭(11月中の辰の日)がある(いずれも旧暦)。中でも、新嘗祭は、年の締めであるとともに、秋の収穫を祝う行事として位置づけられている。
嘗ての新嘗祭は、今日「勤労感謝の日」として国民の祝日となっている。しかし「勤労感謝の日」とは別に新嘗祭の行事は今に生きていて、天皇家や諸神社でも、今日なお執り行われている。
諸節句の日には儀式が執り行われ、その翌日には“節会(セツエ)”と称される饗宴が催されていた。新嘗祭にあっては、特に“豊明節会”と呼ばれていて、2日にわたって宴が催され、五節(ゴセチ)の舞などが行われる。
“豊明節会”では、「列席された天皇が、神々に新穀を捧げるとともに、自らも一緒に召し、また群臣にも賜り、合わせて酒饌(シュセン、酒肴)も供された」と。一年の豊穣を感謝して、年を締める行事であった。
作者について触れておきます。僧正遍昭は、桓武天皇(第50代;在位781~806)の孫という高貴な生まれでありながら、出家して天台宗の僧侶となり、僧正の職まで昇った僧侶である。
また歌僧の先駆の一人と評されるほどの歌人であり、六歌仙および三十六歌仙の中の一人である。『古今和歌集』(16首)以下の勅撰和歌集に35首採入されている と。
「僧正遍昭の歌は、歌の風体や趣向はよろしいが、真情に乏しい」と、紀貫之は『古今和歌集』の序で評しているようですが。何の!!何の!!“天つ風”の歌から読めるように“生臭坊主”(?)に近い風情が感じられます。
尚、僧正遍昭の歌は、出家前後で歌風が変わってきたと言われています。出家前には“天つ風”のように、情感溢れる歌を書いていた。出家後には物事を知的・客観的に捉える歌が多くなった と。百人一首に選ばれた“天つ風”は、出家前の作ということである。
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