はじめに
先に『百人一首』の漢詩訳書を上梓した。『百人一首』は、主に貴族社会の事象を詠った歌で占められているが、その中で、庶民に目を向けた一首に心惹かれた。鎌倉右大臣・源実朝の歌である(本書 雑10および参考3)。以後、実朝の歌を拾い読みしているうちにすっかり魅せられて、漢詩訳に挑戦するに至った次第です。やはり『金槐和歌集』においても、庶民対象の歌は多い。
漢詩訳に当たって、最も注意した点は、“本歌取り”の漢詩とならないことである。すなわち、歌作者の主張に思いを得て、作者と異なった主張の漢詩を作るのではなく、当然ながら作者の主張したい点をしっかりと伝えることに注力した。
和歌の “枕詞”は、解釈する際、無視してもよい程度の用語とされる。しかし “枕詞”には、暗黙裡にある独特の状況・情景を想像させる働きがあるように思われる。漢詩化に際し、出来るだけ生かすべく務めた。 “枕詞”の意に近い既存の用語が見当たらない場合、敢えて造語して応用した。
実朝(幼名・千幡/センマン)は、建久3年(1192)、源頼朝の次男として生まれた。母は北条政子である。千幡は12歳(1203)で3代将軍に着任、その際、後鳥羽上皇から授けられた “実朝”に改名する。さらに前大納言・坊門信清の娘を正室に迎えた(1204)。
実朝は、1218年3月「左近衛大将」、10月に「内大臣」、12月に「右大臣」と続けざまに官職に任じられた。翌年正月 [建保7年1月27日(1219年2月13日)] 、「右大臣」拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣、その帰路、宮前の階段で、頼家の次男公暁(クギョウ)により暗殺される。実朝28歳の若さであった。
目次
はじめに ……………………………………………… 1
本書の構成と凡例 ………………………………… 1
I部 和歌と漢詩 …………………………………… 2
II部 歌人・源実朝の誕生 …………………………52
第1章 実朝の歌人としての天分・DNA……52
第2章 教育環境、和歌の師と協力者 ………52
- 1 源光行と教材 ……………………………52
- 2 藤原定家との出会い ……………………53
- 3 後鳥羽上皇との関係 ……………………54
第3章 後世 “歌人・源実朝像”の構築 ……… 54
歌人・源実朝の誕生 まとめ……………………56
あとがき ………………………………………………56
参考図書 ………………………………………………57
本書の構成と凡例
- 《I部》における表示について、
・“部立て”は、小島本(参考7) に従った。
・各々の部および歌について、
例:本文中: 「春x (定家 春・x) yz」の表示中、
“春x”は、定家本 春の部xの本書中での附番”、”yz”は、収載勅撰集および所在を示す。
2.「参考図書」については、本文の該当する箇所で (参考x) と表示した。
I部 和歌 と 漢詩
《春の部》
春1 (定家 春1)
(詞書) 正月一日 詠む
今朝みれば山も霞(カスミ)て久方の天の原より春は来にけり
(大意) 元旦の今朝、眺めてみると空も山も霞がかかっている。春は大空からやってきたのだなあ。
<漢詩>
元旦詠 元旦に詠む [上平声十一真韻]
盈盈淑氣入佳辰, 盈盈たり 淑気(シュクキ) 佳辰(カシン)に入る,
知是今朝万象新。 知る是(コレ) 今朝 万象(バンショウ)新たなるを。
一望瑞霞滿山面, 一望すれば瑞霞(ズイカ) 山面に滿つ,
從天空到翠煙春。 天空從(ヨ)り到るか 翠煙の春。
<簡体字表記および注記>
元旦 咏
盈盈淑气入佳辰, 知是今朝万象新。
一望瑞霞满山面, 从天空到翠烟春。
<現代語訳>
<元旦に詠む> 新春の和やかな気が満ちて 良き時節を迎えた、今朝 すべての事柄が装いを新たにしている。山を望めば 春霞が一面に棚引いており、青みを帯びた霞の春は 天空からやってきたのだ。
[注記]『金槐集』の巻頭を飾る一首である。
春2 (定家 春6) (『玉葉集』春上45)
[詞書] 春の初めの歌
うちなびき春さりくればひさぎ生ふるかた山かげに 鶯ぞなく
(大意) 春が来るとひさぎの生える片山の山影で鶯が鳴きだす。
<漢詩>
孟春 初春 [下平声八庚韻]
春訪嫩芽萌, 春 訪(オトズレ)て 嫩芽(ワカメ)萌(モ)え,
随風草木傾。 風に随いて 草木傾(ナビ)く。
孤山楸樹茂, 孤山 楸樹(シュウジュ)茂り,
山後遠鶯鳴。 山後(ヤマカゲ)に遠鶯(エンオウ)鳴く。
<簡体字表記>
孟春
春访嫩芽萌, 随风草木倾。
孤山楸树茂, 山后远莺鸣。
<現代語訳>
<初春> 春が来ると草木が一斉に芽吹き、風につれて草木が靡く。片山には ひさごが繁茂していて、その山陰に鶯が来て鳴きだす。
春3 (定家 春・7)
[詞書] 春のはじめの歌
山里に家居はすべし鶯の鳴く初声の聞かまほしさに
(大意) 鶯の初音が聞きたさに 山里に家居をしよう。
<漢詩>
欲聞鶯初音 鶯の初音を聞かんと欲す [下平声八庚韻]
余可住山里, 余(ヨ) 山里に住む可(ベ)し,
遠離熙攘城。 熙攘(キジョウ)なる城(マチ)より遠く離れて。
幽幽恬静処, 幽幽(ユウユウ)たり恬靜(テンセイ)なる処,
為賞喨初声。 喨(ヒビキワタ)る初声を賞(ショウ)せんが為に。
<簡体字表記>
欲闻莺初音
余可住山里, 远离熙攘城。
幽幽恬静处, 为赏喨初声。
<現代語訳>
<鶯の初鳴きが聞きたい> 私は山里に住もうと思う、騒々しい街から遠く離れて。山奥の静かなところ、高らかに響く鴬の初鳴きを聞き、愛でるために。
春4 (定家 春・12) (『続後撰集』 巻一春上・25)
[詞書] 屏風の絵に、梅花に雪のふりかかるを
梅の花色はそれとも分かぬまで風にみだれて雪はふりつゝ
(大意) 梅の花は咲き乱れている。梅の花は真っ白であり、梅の上に降る雪もまつしろである。いづれが梅かいづれが雪かみわけもつかない。そして雪は風に散り乱れて降りつゞくのである。
<漢詩>
分不清花雪 花と雪 分清ならず [上平声十灰-四支通韻]
肯定梅枝花盛開, 肯定(カナラズヤ)梅の枝 花 盛開(セイカイ)ならん,
紛紛天花大円馳。 紛紛として天花(テンカ)大円(ダイエン)を馳(ハ)す。
令人失法分清兩, 人を令(シ)て兩を分清る法を失わしむに,
更尙乱風下雪滋。 更尙(ナオサラ)に乱風 雪の下ること 滋(シゲ)し。
<簡体字表記>
分不清花雪
肯定梅枝花盛开, 纷纷天花大圆驰。
令人失法分清两, 更尙乱风下雪滋。
<現代語訳>
<梅の花と雪が見分けがつかない> きっと梅の枝には真っ白な花が満開になっているであろうが、大空には雪がしきりに舞っている。共に真っ白な梅花と雪と見分けが付かなくなっており、それでもなお風は乱れ吹き、降雪は激しくなっているよ。
[注記] 屏風絵を見て作った歌。一枚の絵の“静”の世界から、“天花”が舞う“動”の世界へと引き込まれてしまう歌です。
春5 (定家 春・13)
[詞書] 梅の花咲けるところをよめる
わがやどの梅の初花 咲きにけり待つ鴬はなどか来鳴かぬ
(大意) 私の家では梅の初花が咲いたよ。待ち望んでいる鶯は、どうして来て鳴かないんだ。
<漢詩>
和王安石 梅花 盼望鶯来啼 [上平声十灰韻]
我宿初花梅、 我が宿の初花の梅、
忍寒到底開。 寒を忍んで到底(ヤット)開く。
鶯啊翹首盼, 鶯啊(ヤ) 翹首(クビヲナガク)して盼(マチノゾ)むに,
為何未来陪。 為何(ナニユエ)に未(イマ)だ来て陪(バイ)せぬか。
<簡体字表記>
盼望莺来啼
我宿初花梅, 忍寒到底开。
莺啊翘首盼, 为何未来陪。
<現代語訳>
<王安石の梅花に和す 鶯の来(キ)啼(ナ)くを盼望(マチノゾ)む>
我が家の初花を付けた梅、寒に耐えてやっと初花が咲いたよ。 鶯よ! 首を長くして待ち望んでいるのに、何故に未だに来て鳴いてくれないのだ。
[注記]
北宋・王安石(1021~1086)の詩《梅花》に“韻”を借りた (参考2)。
梅花
墙角数枝梅, 凌寒独自開。
遥知不是雪, 為有暗香来。
春6 (定家 春・15)
[詞書] 梅の花、風に匂うということを、人々によませ侍りしついでに
梅が香を夢の枕にさそひきてさむる待ちける春のはつ風
(大意) 梅の芳しい香りが春の初風に乗ってきて、春の夜の夢の枕辺で漂っている、あたかも私の目覚めを待っているようである。
<漢詩>
妨碍春眠花訊 春眠を妨碍(サマタゲ)る花訊(カシン) [上平声一東韻 ]
梅花若開前院中, 梅花 開いたが若(ゴト)し 前院の中(ウチ),
隨風夢枕暗香籠。 風に隨いて 夢枕に暗香(アンコウ)籠(コモ)る。
有如等待人覚醒, 人の覚醒するを等待(マツ)が如(ゴト)く有り,
送馥正是春初風。 馥(フク)を送るは 正(マサ)に是(コ)れ春の初風。
<簡体字表記>
妨碍春眠花讯
梅花若开前院中, 随风梦枕暗香笼。
有如等待人觉醒, 送馥正是春初风。
<現代語訳>
<春眠を妨げる花便り> 前庭の梅の花が咲きだしたようである、そよ風に運ばれてきたか、夢の枕辺に微かな香りが満つ。私の目覚めるのを促しているようだ、その香りを送っているのは正に春の初風なのだ。
春7 (定家 春16) (『新勅撰集』 春上31)
[詞書] 梅花風ににほうという事を人々に詠ませ侍りし次(ツイデ)に
この寝(ネ)ぬる朝明(アサケ)の風にかをるなり軒端の梅の春の初花
(大意) 目覚めると この明け方の風にのって 軒端の梅の初花の香が薫ってくることだ。
<漢詩>
初花暗香 初花の暗香 [上声四紙韻]
黎明睡醒尙慵起, 黎明 睡醒(メザメ)て 尙 起くるに慵(モノウ)くも,
細細微風何快矣。 細細たる微風 何ぞ快(ココロヨ)きこと矣(カ)。
送給芳香春色穩, 芳香を送給(オクッ)て 春色穩(オダヤカ)にして,
房前梅樹初花視。 房前の梅樹に 初花を視る。
<簡体字表記>
初花暗香
黎明睡醒尙慵起, 细细微风何快矣。
送给芳香春色稳, 房前梅树初花视。
<現代語訳>
<初花の微かな香り> 明け方、目覚めても起き上がるにはまだものういが、そよそよと亘るそよ風の何と快いことか。風に乗って芳ばしい香りが届く 穏やかな春の気配、軒端の梅の木の花が咲き始めたのだ。
春8 (定家 春20) (『新勅撰集』 春上30)
[詞書] 霞
みふゆつぎ春し来ぬれば青柳の葛城山上霞たなびく
(大意) 冬に続いて春がやってきたので 青柳の新芽の緑も美しい葛城山には 今 霞がたなびいていることだ。
<漢詩>
孟春葛城山 孟春の葛城山 [上平声十一真韻]
草木茁芽冬已春, 草木 芽を茁(ダ)し 冬 已(スデ)に春,
欣欣天地入佳辰。 欣欣(キンキン)たり天地 佳辰(カシン)に入る。
葛城山上靄繚繞, 葛城山(カツラギサン)上 靄 繚繞(リョウジョウ)たり,
青柳依依自有神。 青柳 依依(イイ)として自(オノ)ずから神有り。
<簡体字表記>
孟春葛城山
草木茁芽冬已春, 欣欣天地入佳辰。
葛城山上霭缭绕, 青柳依依自有神。
<現代語訳>
<初春の葛城山> 草木も芽吹き 冬は已に往き もう春だ、天地ともに喜ばしい佳い季節となった。葛城山には春霞がかかり、麓の青柳がなよなよと春風に揺れて 素晴らしい情景である。
春9 (定家 春27)
[詞書] 雨そぼ降れる朝(アシタ) 勝長寿院の梅、所どころ咲きたるを見て、花にむすびつけし歌
古寺の朽木の梅も春雨にそぼちて花ぞほころびにける
(大意) 古寺の朽ちた梅の木が 春の雨にしっとりと濡れて 花のつぼみが綻びだしている。
<漢詩>
春雨促茁梅花 春雨梅花の茁を促す [下平声五歌-六麻通韻]
古寺院中梅朽柯, 古寺の院中 梅の朽柯(クチギ)あり,
御寒独立带微霞。 寒を御(シノ)いで独り立ち微かに靄を帯びる。
淅淅春雨湿枝葉, 淅淅(セキセキ)として春雨 枝葉を湿(ウルオ)し,
稀稀南枝促茁花。 稀稀(キキ)として南枝に 花の茁(ホコロ)ぶを促す。
<簡体字表記>
春雨促茁梅花
古寺院中梅朽柯, 御寒独立带微霞。
淅淅春雨湿枝叶, 稀稀南枝促茁花。
<現代語訳>
<春雨 梅花の開花を促す> 古寺・勝長寿院の庭にある梅の古木、寒に耐えて独りで立って、微かに春霞を帯びている。しとしと降る春の小雨に、枝葉もしっとりと濡れて、南枝に点点と花のつぼみが綻び始めたのが見える。
[注記] 勝長寿院(ショウチョウジュイン)を訪れた際の作。勝長寿院は、鎌倉時代初期、1184年に頼朝が 父・義朝の菩提を弔うために建てた寺院、その跡に石碑が残る。
春10 (定家 春28)
[詞書] 雨後鶯
春雨の露もまだひぬ梅が枝(エ)にうは毛しをれて鶯ぞ鳴く
(大意) 春雨に濡れて梅の枝は未だ乾いていない、鶯は上毛がしおれたままで、鳴いている。
<漢詩>
孟春雨後情景 初春 雨後の情景 [下平声一先-上平声十四寒韻 通韻]
春雨暗香伝, 春雨 暗香(アンコウ)伝う,
梅枝沾未乾。 梅枝 沾(ウルオイ)未(イマ)だ乾(カワ)かず。
露珠在蔫羽, 露(ツユ)の珠(タマ) 蔫(シオ)れし羽に在り,
枝上鶯語闌。 枝上の鶯の語(ナキゴエ)闌(タケナワ)なり。
<簡体字表記>
孟春情景
春雨暗香传, 梅枝沾未干。
露珠在蔫羽, 枝上莺语阑。
<現代語訳>
<孟春 雨後の情景> 春雨が止んで、何処からともなく梅の香りが伝わってきた、濡れた梅の枝はまだ乾いていない。鶯のしおれた上毛には露の玉が載っており、枝に止まった鶯の鳴き声が、今を盛りと聞こえてくる。
春11 (定家 春31)
[詞書] 故郷梅花
年ふれば宿は荒れにけり梅花花はむかしの香ににほへども
(大意) 年経て、宿は荒れてきたが、梅の花は昔のように芳ばしい香を漂わせている。
<漢詩>
故郷梅花 故郷の梅花 [去声二十六宥韻]
荏苒年忽邁, 荏苒(ジンゼン)として年は忽(タチマチ)に邁(ユ)き,
園哉荒廃宿。 園(ソノ)哉(ヤ) 荒廃せし宿あり。
蕭蕭梅老木、 蕭蕭(ショウショウ)たり梅の老木、
馥馥香依旧。 馥馥(フクフク)たりて香 旧に依(ヨ)る。
<簡体字表記>
故乡梅花
荏苒年忽迈,园哉荒廃宿,
蕭蕭梅老木、馥馥香依旧。
<現代語訳>
<故郷の梅の花> 為すことのないまゝに年は忽ちに過ぎ、我が園は荒れ、宿は荒廃してあり。梅の老木は風にそよいで、寂しい音を立てている、それでも花の香は昔のまゝに芳ばしく漂っているよ。
春12 (定家 春・46) (『新後撰集』 110)
[詞書] 遠山桜
かづらきや高間の桜ながむれば夕ゐる雲に春雨ぞ降る
(大意) 夕方、葛城の高間山の桜を眺めると、居座っている雲に春雨が降っている。
<漢詩>
遠山桜 遠山の桜 [上平声十五刪-上平声十二文韻]
藹藹葛城高間山, 藹藹(アイアイ)たり葛城(カツラギ) 高間(タカマ)の山,
聞桜花已好風熏。 聞くは 桜花 已(スデに)好風(コウフウ)熏(カオ)ると。
欲看好景憑欄眺, 好景を看と欲して欄に憑(ヨ)りて眺むるに,
春雨下来夕住雲。 春雨 下(オ)り来(モ)たらす 夕住(ユウイ)る雲。
<簡体字表記>
远山桜
蔼蔼葛城高间山, 闻樱花已好风熏。
欲看好景凭栏眺, 春雨下来夕住云。
<現代語訳>
<遠山の桜> 緑の木々がよく茂る葛城の高間山、すでに桜の花が盛りで よい香りを漂わせていると聞く。その素晴らしい光景を見んと、欄干に凭れて遠く眺めるに、夜間には山に居座るとされる雲が春雨を降らせている。
[注記] 結句の「夕住雲」:歌中の「夕ゐる雲に」を活かす為の造語。 古く中国では、雲は「“岫(シュウ、山の洞穴)”から出る」と考えられていたようである(陶淵明《帰去来兮辞》)。一方、日本では、 “雲は山に居座っているもの“と考えられていたようである。
春13 (定家 春57)
[詞書] 如月の二十日あまりの程にやありけむ、北向きの縁に立ち出でて、夕暮れの空を眺めて一人居るに、雁の鳴くを聞きてよめる。
ながめつつ思うも悲し帰る雁 行くらむ方(カタ)の夕暮れの空
(大意) 夕暮れ時、鳴き声に誘われて目を向けると 北へ帰る雁の群れが目にはいる。雁の飛んで行く先は なお夕暮れの空、ながめつつ 思うだに悲しみが増してくる。
<漢詩>
黃昏空聴雁音 黃昏の空に雁音を聴く [上平声一東韻]
後廈聴嚶夕照紅, 後廈(コウカ) 嚶(オウ)を聴く 夕照(ユウヒ)紅なり,
孤単眺望傍晚空。 孤単(コタン) 眺望(チョウボウ) す傍晚(ユウグレ)の空。
惟見雲間帰雁度, 惟(タ)だ見る 雲間に帰雁(キガン)度(ワタ)るを,
馳念旅雁悲愈隆。 旅雁に念を馳せ 悲しみ愈(イヨイヨ)隆(タカ)まる。
<簡体字表記>
黄昏空听雁音
后厦听嘤夕照红,孤单眺望傍晚空。
惟见云间归雁度,驰念旅雁悲愈隆。
<現代語訳>
<夕暮れの空に雁の鳴き声を聞く> 西の空が夕焼けで染まる頃北側の縁側で鳥の鳴き声を聞き、一人で夕暮れの空を見上げた。惟だ目に入るは 雲間に北に帰る雁の群れのみ、遠く北に帰る雁に想いを馳せると悲しみが弥増してくる。
春14 (定家 春62)
[詞書] 故郷花
尋ねても誰にか問わむ故郷の花も昔のあるじにならねば
(大意) 故郷に訪ねていったとしても 誰に声をかけたらよいものか 今咲いている花も昔の主にはなれないのだ。
<漢詩>
故鄉花 故鄉の花 [下平声十一尤韻]
欲訪故鄉遊, 故鄉を訪ね 遊ばんと欲すも,
如今問無由。 如今(ジコン) 問うに由(ヨシ)無し。
比方花旺盛, 比方(タトイ) 花 旺盛(オウセイ)なりとても,
不能為老頭。 老頭に為(ナ)る能(アタ)わず。
<簡体字表記>
故郷花
欲访故乡游,如今问无由。
比方花旺盛,不能为老头。
<現代語訳>
<故鄉の花> 故郷を尋ね、ゆっくりしたいと思うのだが、近頃 誰を尋ねたものか 当てもない。たとえ花は満開に咲いていたとしても、昔色々と教わった主のお年寄りにはなれないのだ。
春15 (定家 春64) (『新勅撰集』 春下106)
[詞書] 花をよめる
桜花ちらばをしけむ玉鉾(タマボコ)の道行きぶりに 折(オ)りてかざさむ
(大意) 桜の花、散ってしまっては惜しいよ、道中の行き合いに、枝を折って冠に挿して飾ることにしよう。
<漢詩>
詠桜花 桜花を詠む [下平声八庚韻]
春郊絢麗一山櫻, 春郊(シュンコウ) 絢麗(ケンレイ)一山の櫻,
無賞落花心不平。 賞ること無く 花を落らすは心 平ならず。
玉鉾路上趁機会, 玉桙(タマボコ)の路上この機会に趁(ジョウ)じて,
把朵撕插在冠行。 朵(エダ)を把って撕(チギ)りとり 冠に插して行かん。
<簡体字表記>
咏樱花
春郊绚丽一山樱,无赏落花心不平。
玉鉾路上趁机会,把朵撕插在冠行。
<現代語訳>
<桜の花を詠む> 初春の郊外、山全体に桜の花が咲き誇っている、この花を愛ることなく散らせては惜しくて心穏やかではない。この道を通りかかったのを幸いに、一枝手折って、冠に挿して行くことにしよう。
春16 (定家 春71)
[詞書] 屏風に 山中に桜のさきたる所
山風のさくらふきまく音すなり吉野の滝の岩もとどろに
(大意) 桜の花に吹きつけ 巻きあげる山風の激しい音がしている。あたかも吉野の滝水が岩に轟き落ちる音のようだ。
<漢詩>
山風襲擊桜花 山風 桜花を襲擊す
[上平声十四寒‐上平声十一真通韻]
山風狂吹打花闌, 山風狂おしく吹き 花闌なるを打(オソ)い,
勁爆声音一震震。 勁爆(ハゲシ)き声音の一に震震(シンシン)たる。
猶如聴到吉野里, 猶(アタカモ) 吉野の里に聴到(キク)が如く,
瀑布撞岩轟響頻。 瀑布 岩に撞かり 轟く響頻(シキリ)なるを。
<簡体字表記>
山风袭击樱花
山风狂吹打花阑,劲爆声音一震震。
犹如听到吉野里,瀑布撞岩轰响频。
<現代語訳>
<桜花を襲う山風> 山風が咲き誇る桜花に吹きつけて、巻きあげる激しい音がしている。恰も 吉野の滝水が岩にぶつかり、頻りに轟きわたる音を聞いているかのようである。
[注記] 屏風絵を見て詠った歌。“山中に満開の桜”を見て、吹きすさぶ嵐のごとき音と吉野の滝水が岩に轟き落ちる音を感じている。なにか胸の内に鬱屈したことがあったのであろうか。
春17 (定家 春80)
[詞書] 雨中夕花
山桜今はのころの花の枝(エ)にゆふべの雨の露ぞこぼるる
(大意) 山桜が散り終わろうとするころ 花の枝に置かれた夕べの雨露が別れを告げる涙のように こぼれ落ちている。
<漢詩>
季春桜花 季春の桜花 [下平声二蕭韻]
山桜雕謝際, 山桜 雕謝(シボミチ)らんとする際(キワ),
清露乃盈條。 清露 乃(イマ)し 條(エダ)に盈(ミ)つ。
前夜残春雨, 前夜の残(ナゴリ)の春の雨,
塗塗露珠跳。 塗塗(トト)として露珠(ロシュ)跳(ハ)ねる。
<簡体字表記>
季春樱花
山樱雕谢际,清露乃盈条。
前夜残春雨,涂涂露珠跳。
<現代語訳>
<晩春の山桜> 散ってしまいそうな際にある山桜、その枝には澄んだ露が満ち満ちている。昨夜の名残の春雨なのだ、たっぷりと膨らんだ露の玉がこぼれ落ちている。
春18 (定家 春83)
[詞書] 三月の末つ方、勝長寿院に詣でたりしに、ある僧、山影に隠れるを見て、花はと問いしかば、散りぬとなむ答え侍りしを聞きて詠める。
行きて見むと思いしほどに散りにけりあやなの花や風立たぬまに
(大意) 行って見ようと思っている間に散ってしまっているよ 風が立っているわけでもないのに 何と条理の解らぬ花よ。
<漢詩>
錯過看花 花を看(ミ)錯過(ソコナ)う [去声十五翰韻]
独是欲尋看, 独(タダ)是(コ)れ 尋(タズ)ね看(ミ)んと欲するに,
無端何已散。 無端(ハシナ)くも何ぞ已(スデ)に散りたる。
至今風不起, 今に至(イタ)るまで 風は不起(オコラヌ)に,
花也條理断。 花也(ヤ) 條理を断つか。
<簡体字表記>
错过看花
独是欲寻看, 无端何已散。
至今风不起, 花也条理断。
<現代語訳>
<花を見損なう> ただに訪ねて来て、見ようと思っていたのだが、思いがけなく来てみると、既に散っていることを知った、何たることだ。このところ、風が立っていたわけでもないのに、道理を解さない花だよ。
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