安史の乱が勃発(755)、安禄山が長安に迫ると、玄宗皇帝一行は蜀に逃れる。途中、皇太子・李亮は、馬嵬(バカイ)から霊武に向かい、朔方節度使・郭子儀と合流、安禄山に対する。756年7月、李亮は、側近・李輔国の建言を容れて皇帝に即位した(粛宗)。ただこの件、玄宗の承諾は得ておらず、玄宗は事後承諾するほかはなかった。
757年、粛宗は、長男・李俶(のちの代宗)、次男・李係や郭子儀らと共に長安や洛陽の奪還に成功。粛宗は10月、玄宗は12月に長安に帰還した。都・長安の佇まいは、以前と何ら変わることはなかったが、今は亡き貴妃の面影に涙するばかり、と。
乱勃発の当時、李白は江南の地・九江廬山に隠棲していたが、玄宗の第16子の永王・李璘の幕僚として招かれた。王維、杜甫、李白は、3人3様に乱に対処しています。
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<白居易の詩>
長恨歌 (9)
57 帰来池苑皆依旧、 帰り来たれば 池苑(チエン) 皆(ミナ) 旧に依る、
58 太液芙蓉未央柳。 太液(タイエキ)の芙蓉 未央(ビオウ)の柳。
59 対此如何不涙垂、 此に対するに如何(イカン)ぞ涙の垂れざらん、
60 芙蓉如面柳如眉。 芙蓉は面の如く 柳は眉の如し。
61 春風桃李花開日、 春風 桃李 花開く日、
62 秋雨梧桐葉落時。 秋雨(シュウウ)梧桐(ゴトウ) 葉落つる時。
註] 〇太液:太液池のことで、蓬莱池とも呼ばれる。中国の歴代王朝の宮殿に
あった池の名、漢代には長安城外の未央宮内に、唐代には大明宮内にあった;
〇未央宮:漢代に作られた宮殿で、唐代には宮廷の内に入った。
<現代語訳>
57 都に帰ってみると、宮中の池も苑も昔のまま、
58 太液池の蓮の花は咲き、未央宮の柳も緑の枝を垂れている。
59 これらに対して、どうして涙を流さずにいられようか、
60 蓮の花は楊貴妃の顔のようであり、また柳は眉のようなのだ。
61 春の風に桃や李(スモモ)の花が咲き染める日や、
62 秋の雨に梧桐(ゴドウ)の葉が散る時には、わけても悲しみが募る。
[石川忠久監修 「NHK新漢詩紀行ガイド」に拠る]
<簡体字およびピンイン>
長恨歌 Chánghèngē
57 归来池苑皆依旧 Guī lái chí yuàn jiē yī jiù
58 太液芙蓉未央柳 tài yè fúróng wèi yāng liǔ
59 对此如何不泪垂 Duì cǐ rú hé bù lèi chuí [上平声四支韻]
60 芙蓉如面柳如眉 fúróng rú miàn liǔ rú méi
61 春风桃李花开日 Chūn fēng táo lǐ huā kāi rì
62 秋雨梧桐叶落时 qiū yǔ wú tóng yè luò shí
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後世、“開元の治”と称される唐代の絶頂期を築いた玄宗であったが、世の推移に棹さすことができぬまま、乱世を経て都に帰ってきました。待っていたのは、復位を恐れた李輔国による軟禁と側近の流刑であった。玄宗は、孤独のうちに762年に77歳で崩御した。
先に則天武后(624~705)は、科挙試験の門戸を貴族に限らず、庶民、いわゆる“寒門”にも開くという画期的な制度を定めていた。その期に始まり登用された“寒門”の人材が玄宗時代の“開元の治”に花を咲かせ、芳醇な汁を含んだ実を実らせたと言えようか。張説(チョウエツ)、賀知章(ガチショウ)、張九齢(チョウキュウレイ)、……、王維、杜甫、李白、……と。
就職活動中の李白は、友人の尽力で、玄宗への謁見が叶い、偶々宮中で待つ間に詩壇の長老・賀知章と居合せた。詩の談義が交わされたのでしょう。賀知章は、玄宗に対して、李伯を “謫仙人(タクセンニン、天上界から追放された仙人)也”と紹介、即“翰林供奉”として宮仕えが叶った(742)。
李白の出自については、諸説唱えられているが、詳細は不明である。生母は、李白を懐妊した折、太白(金星)の夢を見たので、夢に因んで名と字(太白)がつけられた と。青少年期は、蜀の青蓮郷で活動、読書のほか、剣術を好み、任侠の徒と交際していたようである。25歳の頃、蜀を離れて、長江流域を中心に中国各地を放浪していた。
732年、安陸の名家で、高宗の宰相であった許圉師(キョゴシ)の孫娘と結婚、長女李平陽、長男李伯禽を設けている。742年、先述のような経緯で“翰林供奉”に任じられ、詩を作り、詔勅の起草などに当たり、宮廷文人としての活躍が始まった。
しかし李白の泣き所、恐らくお酒の上のことでしょう、礼法を無視した放埓な言動が災いして、宦官・高力士らの讒言を受け、宮仕え3年後に長安を追われる羽目に陥った。自由の身となった李白は、放浪中洛陽で杜甫に会い意気投合、以後1年半ほど、高適を交えて山東・河南一帯を旅している。
“安史の乱”勃発後の757年、廬山に隠棲していた李白は、玄宗の第16子・永王李璘(リリン)から幕僚として招かれた。李璘は、玄宗に無断で行われた粛宗の即位を認めず、粛宗の命令を無視した。そこで反乱軍と見做されて追討を受け、斬られた。
李白も捕らえられ、潯陽(ジンヨウ、現九江氏)で獄に繫がれた。旧友たちの助力で数か月後釈放されるが、改めて粛宗の朝廷から夜郎(現貴州省)への流罪が宣された。幸いに配流の途上、白帝城付近で罪を許されて、今来た路を戻り、帰還することになる。
赦免後、長江下流域の宣州(現安徽省南部)を拠点にして再び流浪の旅に出る。その途上、762年宣州当塗県の県令・李陽冰の邸宅で病死した、62歳であった。一伝説では、舟上、酒に酔って、水面に映る月を捉えようとして舟から落ち、溺死した と(促月伝説)。
[句題和歌]
次の歌は、句題として、長恨歌58,59、60句に関わると思われるが、主に60句かな?当歌は、宇多天皇の命により描かれていた長恨歌の屏風絵に詠んだ歌である と。
帰りきて 君おもほゆる 蓮葉(ハチスバ)に
涙の珠(タマ)と おきゐてぞみる(伊勢『伊勢集』)
[大意] 帰っては来てみたが、君はすでに無く、君の面影を宿す芙蓉を 涙なしには
見ることができない。
歌の作者・伊勢(872?~938?)は、平安時代初期の歌人で、第59代宇多天皇の中宮・温子(オンシ)に女官として仕えていた。非常に情熱的で、波乱万丈な生涯を送った才色兼備の女性であったと伝えられている。華やかな恋愛遍歴の中で生み出された秀歌も多い。
三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に数えられており、藤原定家撰になる『百人一首』には次の歌が採られている(閑話休題173参照、漢詩付き)。
19番:難波潟(ナニワガタ) みじかき芦(アシ)の ふしの間も
あはでこの世を 過ぐしてよとや (伊勢 『新古今集』恋・1049)
[大意] ほんのちょっとの間の逢う瀬さえなく、生きていきなさいと仰るのか。
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