この二句:
江東の子弟 才俊 多し,
巻土重来 未だ知るべからず
漢兵に追われている項羽は、長江北岸の烏江(ウコウ)に至り、死を決し、最後の戦に臨みます。その折に、烏江亭の亭長が、「江東には優れた若者が多い、用意した船で河を渡り、江東で再起を期してください」と、項羽に促していました。
一千年余の後、晩唐の詩人・杜牧は、「もしも項羽が亭長の勧めに従って出直していたなら、捲土重来、その結果はどうであったろうか」と詩「烏江亭に題す」で詠っています(下記参照)。
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題烏江亭 杜牧
勝敗兵家事不期,勝敗は 兵家(ヘイカ)も 事(コト)期せず,
包羞忍恥是男児。羞(ハジ)を包み 恥(ハジ)を忍ぶは是(コ)れ男児。
江東子弟多才俊,江東の子弟 才俊(サイシュン)多し,
巻土重来未可知。巻土重来(ケンドチョウライ) 未(イマタ)だ知るべからず。
註]
兵家:兵法家
包羞忍恥:恥辱(チジョク)に耐えること、“羞”:はずかしくて人に顔向けできないこと、“恥”:他者に対して面目ないと思うこころ
江東:現江蘇省南部一帯、項羽の本拠地である
巻土重来:土煙を巻き上げて、再び立ちあがる、“巻土”は“捲土”に同じで、土を巻く。
未可知:(結果は)今もって知ることはできない
<現代語訳>
烏江亭に題す
戦の勝敗は、兵法家であっても予測することはできないものだ、
肩身の狭い思いは胸の奥にしまい、恥を忍び、再起を計ってこそ真の男子だ。
江東の若者たちには優れた人材が多いのであるから、
勢いを盛り返して再び立ち上がっていたなら、結果はどうであったろうか。
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垓下での最後の宴の後、項羽は、「騅(スイ)をひいて参れ」と命じた。「いざ、囲みを破って南へ向かおう。江東に戻り、兵を休めて再起をはかろうではないか!」 と。「はっ、われらも出陣の用意をいたしまする」と、家臣らも心得ている。
項羽は、垓下を抜け出すに当たっても、「垓下の歌」で歌ったように、“時に利非ず。天がわれを亡ぼすのであって、この項羽が弱いからではない”と信じ、拘って止まなかった。
項羽は、駿馬の騅(スイ)に跨った。深夜、親衛隊の中から選ばれた精鋭800騎とともに、闇を衝いて垓下を抜け出して、南に向かった。垓下は、淮河(ワイガ)の北、現安徽省霊璧(リンピー)県にあり、古巣の呉は、垓下の東南方向に当たる。
漢軍が、項羽の脱走を知ったのは、夜が明けてからであった。劉邦は、騎将(騎兵連隊長)灌嬰(カンエイ)に5,000騎を授けて項羽の後を追わせた。騎兵隊の追跡は急であり、また項羽らの逃亡も一刻を争う状況である。
項羽の一行は、選抜された精鋭とは言え、駿馬の騅が脚も折れよとばかりに駆ける速さには及ばない。一騎、また一騎と脱落して、淮河を渡った時は、100騎ほどしか残っていなかったという。
陰陵県(現九江郡、淮南市東南、垓下から直線距離約100 km)の辺りで道に迷った。農夫に「長江に行くには?」と問うと、「左へ」と。しかし左に行くと、沼沢地帯に出て、先に進むことができず、引き返して東に向かった。
この道草のため、漢の騎兵隊に距離を縮められる結果となる。この状況を、曾鞏は、「虞美人草」の中で「陰陵に道を失うは 天の亡すには非ず」と指摘して (閑話休題94 参照)、項羽の想いに異を唱えている。
項羽一行は、東城県(現安徽省滁州(ジョシュウ)市定遠県)に至ったが、その時は項羽に従う者はわずか28騎となっていた。漢軍は未だ千騎単位の兵がいたはずである。項羽一行は漢兵に取り囲まれる結果となった。
項羽は、28騎の壮丁に向かって言った「……70余戦、わしは敗北を知らず、常勝軍団であった。……この期に及んで、こう苦しむのは、天がわしを亡ぼそうとしているのである、わしが戦に弱いからではない。……」と。
続けて、「……わしは死を決した。わしは諸君のため漢の包囲陣を潰し、将を斬り、旗をなぎ倒して見せよう。それで、天がわしを亡ぼすのであって、わしが弱いのではないことが証明できよう。……」と。
項羽は、疾風のように漢軍目がけて馳せた。そのすさまじい勢いに漢軍はあわてて逃げ、道が開けた。漢軍は将校一人と兵約100騎を失ったが、項羽側は2騎を失っただけであった。「どうだ、わしの申したとおりであろう」と。
項羽一行26騎は長江北岸の烏江に至る。東城県から約100km南方、現南京市の20数km上流の辺りである。ここまで来れば、項羽にとっては、人々はみんな身内と言える。そこの亭長は、対岸へ渡すための船を用意してある。
亭長は、「江東の王となってもよろしいではありませんか。どうか急いで渡って下さい。船を持っているのは私だけですよ。漢軍が追ってきたって、渡れるものではありません。……」と、再起を促し、渡江を急かせる。
項羽は、「わしは、8年前、江東の子弟八千をひきつれ江を渡って西に向かった。今一人として生きて帰る者はいない。江東の父兄が憐れんでわしを王にしても、何の面目あって……、いや、わしが心に愧じないでいられると思うか……」。
項羽には珍しく、穏やかな笑いを浮かべていた。やがて居住まいを改めて、亭長に向かって、「……なんのお礼も出来ぬのが残念じゃ。……この名馬をむざむざ殺すには忍びない。どうか受け取られよ」と。「大王さま…」と言うなり、亭長は絶句した。
項羽は、部下に「お前たちも馬から降りろ。刀で戦おう。……」と、大声ながら、いつもの命令調ではなく、言った。一行は、来るべき戦いのため休息していたが、まもなく前方に土煙が見え始めた。漢兵である。白兵戦となった。
項羽は、漢兵の中に顔に見覚えのある者を見つけた。昔、項羽に仕え、今、漢軍の騎兵将校になっている呂馬童という男であった。馬童は尻込みしつつ、後ろにいた王翳(オウエイ)に、「これが項王ですぞ」と教えた。
項羽は、馬童に向かって吼えるような大声で言った「旧知の誼に、お前に手柄を立てさせてやろう。……さあ、この首をくれてやる。ちゃんと受け取るんだぞ」と。言うなり、自決の作法に従って、自らの命を絶った。
項羽は、わずか24歳で挙兵し、天下争いの最終戦に臨んだ時は30歳を過ぎたばかりに過ぎない。その間、70余戦常勝であった。まさに最後の一戦で敗北を喫したことになる。
項羽の首は、王翳が拾っていった。項羽の首には、黄金千金と一万戸の領地の懸賞が掛けられていたのである。後に王翳は、杜衍(トエン)侯に封じられた。杜衍は地名である。
江東の子弟 才俊 多し,
巻土重来 未だ知るべからず
漢兵に追われている項羽は、長江北岸の烏江(ウコウ)に至り、死を決し、最後の戦に臨みます。その折に、烏江亭の亭長が、「江東には優れた若者が多い、用意した船で河を渡り、江東で再起を期してください」と、項羽に促していました。
一千年余の後、晩唐の詩人・杜牧は、「もしも項羽が亭長の勧めに従って出直していたなら、捲土重来、その結果はどうであったろうか」と詩「烏江亭に題す」で詠っています(下記参照)。
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題烏江亭 杜牧
勝敗兵家事不期,勝敗は 兵家(ヘイカ)も 事(コト)期せず,
包羞忍恥是男児。羞(ハジ)を包み 恥(ハジ)を忍ぶは是(コ)れ男児。
江東子弟多才俊,江東の子弟 才俊(サイシュン)多し,
巻土重来未可知。巻土重来(ケンドチョウライ) 未(イマタ)だ知るべからず。
註]
兵家:兵法家
包羞忍恥:恥辱(チジョク)に耐えること、“羞”:はずかしくて人に顔向けできないこと、“恥”:他者に対して面目ないと思うこころ
江東:現江蘇省南部一帯、項羽の本拠地である
巻土重来:土煙を巻き上げて、再び立ちあがる、“巻土”は“捲土”に同じで、土を巻く。
未可知:(結果は)今もって知ることはできない
<現代語訳>
烏江亭に題す
戦の勝敗は、兵法家であっても予測することはできないものだ、
肩身の狭い思いは胸の奥にしまい、恥を忍び、再起を計ってこそ真の男子だ。
江東の若者たちには優れた人材が多いのであるから、
勢いを盛り返して再び立ち上がっていたなら、結果はどうであったろうか。
xxxxxxxxx
垓下での最後の宴の後、項羽は、「騅(スイ)をひいて参れ」と命じた。「いざ、囲みを破って南へ向かおう。江東に戻り、兵を休めて再起をはかろうではないか!」 と。「はっ、われらも出陣の用意をいたしまする」と、家臣らも心得ている。
項羽は、垓下を抜け出すに当たっても、「垓下の歌」で歌ったように、“時に利非ず。天がわれを亡ぼすのであって、この項羽が弱いからではない”と信じ、拘って止まなかった。
項羽は、駿馬の騅(スイ)に跨った。深夜、親衛隊の中から選ばれた精鋭800騎とともに、闇を衝いて垓下を抜け出して、南に向かった。垓下は、淮河(ワイガ)の北、現安徽省霊璧(リンピー)県にあり、古巣の呉は、垓下の東南方向に当たる。
漢軍が、項羽の脱走を知ったのは、夜が明けてからであった。劉邦は、騎将(騎兵連隊長)灌嬰(カンエイ)に5,000騎を授けて項羽の後を追わせた。騎兵隊の追跡は急であり、また項羽らの逃亡も一刻を争う状況である。
項羽の一行は、選抜された精鋭とは言え、駿馬の騅が脚も折れよとばかりに駆ける速さには及ばない。一騎、また一騎と脱落して、淮河を渡った時は、100騎ほどしか残っていなかったという。
陰陵県(現九江郡、淮南市東南、垓下から直線距離約100 km)の辺りで道に迷った。農夫に「長江に行くには?」と問うと、「左へ」と。しかし左に行くと、沼沢地帯に出て、先に進むことができず、引き返して東に向かった。
この道草のため、漢の騎兵隊に距離を縮められる結果となる。この状況を、曾鞏は、「虞美人草」の中で「陰陵に道を失うは 天の亡すには非ず」と指摘して (閑話休題94 参照)、項羽の想いに異を唱えている。
項羽一行は、東城県(現安徽省滁州(ジョシュウ)市定遠県)に至ったが、その時は項羽に従う者はわずか28騎となっていた。漢軍は未だ千騎単位の兵がいたはずである。項羽一行は漢兵に取り囲まれる結果となった。
項羽は、28騎の壮丁に向かって言った「……70余戦、わしは敗北を知らず、常勝軍団であった。……この期に及んで、こう苦しむのは、天がわしを亡ぼそうとしているのである、わしが戦に弱いからではない。……」と。
続けて、「……わしは死を決した。わしは諸君のため漢の包囲陣を潰し、将を斬り、旗をなぎ倒して見せよう。それで、天がわしを亡ぼすのであって、わしが弱いのではないことが証明できよう。……」と。
項羽は、疾風のように漢軍目がけて馳せた。そのすさまじい勢いに漢軍はあわてて逃げ、道が開けた。漢軍は将校一人と兵約100騎を失ったが、項羽側は2騎を失っただけであった。「どうだ、わしの申したとおりであろう」と。
項羽一行26騎は長江北岸の烏江に至る。東城県から約100km南方、現南京市の20数km上流の辺りである。ここまで来れば、項羽にとっては、人々はみんな身内と言える。そこの亭長は、対岸へ渡すための船を用意してある。
亭長は、「江東の王となってもよろしいではありませんか。どうか急いで渡って下さい。船を持っているのは私だけですよ。漢軍が追ってきたって、渡れるものではありません。……」と、再起を促し、渡江を急かせる。
項羽は、「わしは、8年前、江東の子弟八千をひきつれ江を渡って西に向かった。今一人として生きて帰る者はいない。江東の父兄が憐れんでわしを王にしても、何の面目あって……、いや、わしが心に愧じないでいられると思うか……」。
項羽には珍しく、穏やかな笑いを浮かべていた。やがて居住まいを改めて、亭長に向かって、「……なんのお礼も出来ぬのが残念じゃ。……この名馬をむざむざ殺すには忍びない。どうか受け取られよ」と。「大王さま…」と言うなり、亭長は絶句した。
項羽は、部下に「お前たちも馬から降りろ。刀で戦おう。……」と、大声ながら、いつもの命令調ではなく、言った。一行は、来るべき戦いのため休息していたが、まもなく前方に土煙が見え始めた。漢兵である。白兵戦となった。
項羽は、漢兵の中に顔に見覚えのある者を見つけた。昔、項羽に仕え、今、漢軍の騎兵将校になっている呂馬童という男であった。馬童は尻込みしつつ、後ろにいた王翳(オウエイ)に、「これが項王ですぞ」と教えた。
項羽は、馬童に向かって吼えるような大声で言った「旧知の誼に、お前に手柄を立てさせてやろう。……さあ、この首をくれてやる。ちゃんと受け取るんだぞ」と。言うなり、自決の作法に従って、自らの命を絶った。
項羽は、わずか24歳で挙兵し、天下争いの最終戦に臨んだ時は30歳を過ぎたばかりに過ぎない。その間、70余戦常勝であった。まさに最後の一戦で敗北を喫したことになる。
項羽の首は、王翳が拾っていった。項羽の首には、黄金千金と一万戸の領地の懸賞が掛けられていたのである。後に王翳は、杜衍(トエン)侯に封じられた。杜衍は地名である。
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