天の原 振りさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
阿倍仲麻呂
<訳> はてしない広さの大空を振り仰いでみると、美しい月が出ている。あの月は、故国の日本で見た春日の三笠の山に出ていた月と、同じものなのだなあ。(板野博行)
阿倍仲麻呂(698~770)は、717年、第9次遣唐使として唐の都・長安に留学する。唐名を晁衡(チョウコウ)と称し、唐朝で科挙に及第して諸官を歴任、高官に登っていた。唐では玄宗皇帝(在位712~756)の頃である。
唐では、王維(701?~761)や李白(701~761)たちと交流を結んでいたようである。上の歌は、仲麻呂が、官職を終えて帰国が許され、王維らによる送別の宴が催された折に、日本語で詠われた歌とされています。上の歌を七言絶句に作りました(下記参照)。
実際は、帰国の途上、暴風雨に遭い、乗っていた船は、安南(現ベトナム)に漂着した。再び長安に戻り、復職している。結局日本への帰国は叶わず、唐で客死した。
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<漢字原文および読み下し文>
懐故国 故国を懐(オモ)う (下平声一先韻)
迢迢顧望東昊天, 迢迢(チョウチョウ)たる 東の昊天(コウテン)を顧望(コボウ)すれば,
皎皎嫦娥亦寂然。 皎皎(コウコウ)たる嫦娥(ジョウガ) 亦た寂然(セキゼン)たり。
緬想扶桑春日地, 緬想(メンソウ)す 扶桑(フソウ)春日の地,
三笠山上月同円。 三笠山上 月 同じく円(マドカ)なるを。
註]
迢迢:はるかに遠いさま,皎皎:白く光り輝くさま;後漢「古詩十九首 其の十 迢迢牽牛星」(作者不明)に拠った。
昊天:広い空。
嫦娥:中国古代の伝説上の人物で、月に住む仙女。転じて“月”の異称。
緬想:思いを馳せる。 扶桑:日の出る東海の土地、日本の異称。
<簡体字およびピンイン>
怀故国 Huái gùguó
迢迢顾望东昊天, Tiáotiáo gùwàng dōng hào tiān,
皎皎嫦娥亦寂然。 jiǎojiǎo Cháng'É yì jìrán.
缅想扶桑春日地, Miǎnxiǎng fúsāng chūnrì dì,
三笠山上月同圆。 Sānlìshān shàng yuè tóng yuán.
<現代語訳>
故国を偲ぶ
振り返って、遥かに遠く東の大空に目をやれば、
月が明るく光り輝いて見え、また一抹の寂しさを覚える。
想いは、日本の奈良・春日の地、
三笠山の山上に見た月も同じく真ん丸であったことに及ぶのである。
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歌の作者・阿部仲麻呂は、大和の国で貴族の家に生まれ、若くしてその学才を認められた。18歳で遣唐使に推薦されて、翌年(717)、19歳に第9次遣唐使として唐の都・長安に留学する。
唐の官吏養成のための最高学府・太学で学び科挙に合格、玄宗に仕える。725年(28歳)、洛陽の司経局校書として任官し、以後諸官職を重ねていく。主に文学畑の役職を務めたことから、李白など多くの詩人とも親交を持っていたようである。
753年(56歳)、在唐36年を経ていた仲麻呂は、第12次遣唐使一行の来唐を機に帰国を願い出て、秘書監・衛尉卿を授けられて帰国が許されます。その折、王維は、送別の宴を催すとともに、別離の詩「秘書晁監の日本国へ還るを送る」を残しています。
この宴会の席上、仲麻呂は、上掲の歌を日本語で詠った とされています。一方、日本を発ち、遣唐使船の上で遠ざかる日本を振り返って詠ったとの説もある。漢詩化は、前者の情景を念頭に進めました。
しかし帰国の途上、仲麻呂らの乗った船は、暴風雨に遭い、帰国は叶いませんでした。すでに朝廷を追われた李白は、流浪の旅の空で仲麻呂遭難の報を知り、亡くなったものと思い込み、弔いの詩「晁卿衡を哭す」を残しています。
実際は、仲麻呂らの乗船は、南方、安南・驩州(カンシュウ、現ベトナム中部ヴィン)に漂着し、755年、長安に帰着しました。別のルートで帰国を図るが、その年に起こった“安史の乱”のため、帰国は許されず、帰国を断念します。“安史の乱”の混乱の中、如何に難を避けて過ごされたかは、不明である。
仲麻呂は、再び官途に就き、760年以降、ベトナムに赴いた。6年間(761~767)、ハノイの安南都護府に在任、安南節度使等を務め、最後は潞州(ロシュウ)大都督(従二品)を贈られている。結局、日本への帰国は叶えられず、770年73歳の生涯を閉ざした。
王維「秘書晁監の日本国へ還るを送る」および李白「晁卿衡を哭す」については、続けて、別の “旅”シリーズの稿で読むつもりにしています。特に王維の詩では、当時の中原の知識人が日本をどのように見ていたか その一端を伺えるように思えます。
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