(3番) あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
ながながし夜を ひとりかもねむ
柿本人麻呂
<訳> 山鳥の長く垂れ下がっている尾のように、いつまでも明けない秋の夜長を、恋する人と離れてただ一人寂しく寝るしかないのだろうか。(板野博行)
先に触れたように(閑話休題115)、山部赤人とともに「山柿」と併称される万葉のもう一人の“歌聖”、柿本人麻呂の歌に挑戦します。敢えて“挑戦”としたことにはわけがあります。
和歌には、上記の「あしびきの」のような“枕詞”という修辞法があります。一見、無意味な“飾りのことば”に思え、その漢詩化に当たって難題の一つと言えます。一つの試案を提示しました。ご批判を頂けるとありがたいです。
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<漢字原文および読み下し文>
秋独夜 秋の独夜 [下平声十二侵韻]
曳足山鳥尾, 足を曳(ヒキズ)る山の鳥の尾,
樹上下垂吟。 樹上に下垂(タレサゲ)て吟(ウタ)う。
長夜秋天候, 長夜 秋天(シュウテン)の候,
但恨莫同衾。 但だ恨(ウラ)むらくは同衾(ドウキン)莫(ナ)しを。
註]
曳足: “山”の枕詞、「あしびきの」に対応する。「足を引きずりながら登る」の意を込
めた。
山鳥:キジ科の鳥でオスの尾が非常に長い。そのため「長いこと」を表す時に使われる。
<簡体字>
秋独夜
曳足山鸟尾, Yè zú shān niǎo wěi
树上下垂吟。 shù shàng xiàchuí yín
长夜秋天候, Cháng yè qiūtiān hòu
但恨莫同衾。 dàn hèn mò tóngqīn
<現代語訳>
秋の独夜
足を引きずりながら登る険しい山に住む山鳥の尾、
彩り鮮やかな長い尾を樹上から垂らして、山鳥は美しい声で歌っている。
山鳥の尾のような秋の夜長を
褥(シトネ)を共にする人もなく、一人で寝るのがなんとも恨めしいことである。
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和歌には、枕詞(マクラコトバ)、序詞(ジョコトバ)、掛詞(カケコトバ)、等々、 “語呂合わせあるいは言葉遊戯”とも言える修辞法があります。それらを駆使することで、和歌に深みを与えているようで、和歌にとっては非常に重要な要素といえます。
和歌を漢詩化するに当たって、これらの修辞法を如何に表現するか、誠に難問といえます。まず枕詞について考えます。今回の歌について言えば、「あしびきの」が枕詞に相当します。
上記の先達の<訳>文中、枕詞に相当すると思える表現は見当たりません。つまり枕詞は、言語遊戯の技法のひとつであり、その語自体、和歌の“訳”を考える上では、意味がなく、したがって訳出しする必要がないということのようです。
では翻訳した漢詩に“枕詞に相当する表現”がなくてよいのであろうか。和歌のありようを率直に表現するには、必須であると考えられ、避けて通るわけにはいくまいと考えています。
作者・柿本人麻呂は、枕詞の創造、古い枕詞の新しい解釈等々、今に生きる枕詞の活用に、多大な貢献をされた歌人とされている。“あしひきの”については、元々は「足を引く」意味ではなかったが、「足引きの」→「足引きながら登る」→「山」と関連付けたのも、彼の功績である と。
今回は、“あしひきの”の翻訳に2字の“曳足”を当てたが、3字を要する際には“曳足登”と活かせるように思う。このように、 “導く語・山”との関連が、想像できる枕詞については、比較的に容易に漢詩にも生かせるように思われる。
実際に、枕詞とそれを導く言葉との関連性についての意味合いは、必ずしも一様ではなく、またその数1,000を超すとされる。百人一首の中でも数多いと思われ、これから漢詩化を進める上で、予想を超える難題と覚悟が要りそうだ。
今回取り上げた和歌で、今一つ大事な要素は、序詞(ジョコトバ)である。すなわち、「山鳥の長く垂れ下がった尾のように」は、「長々し夜」を導きだす序詞に当たります。ここで翻訳した漢詩・絶句で言えば、起句と承句が序詞に当たります。
一般に、絶句の漢詩で、起句と承句は、広い意味での、和歌で言う“序詞”に相当する部分であると考えられるのではないでしょうか。つまり、転句・結句の結論に導くために“情景の説明または提示”をする部分である と。
作者・柿本人麻呂は、大和時代後期(7世紀末ころ)に、天武・持統・文武天皇に仕えた宮廷歌人であるが、その生没の詳細は不明のようです。三十六歌仙の一人で、『万葉集』を代表する歌人とされており、450首以上の歌が残っている と。
『万葉集』に長歌20首、短歌75首が収められている と。かの有名な七五調の『いろは歌』“いろはにほへと ちりぬるを …… ”の作者ではないか とする説があるようです。
ながながし夜を ひとりかもねむ
柿本人麻呂
<訳> 山鳥の長く垂れ下がっている尾のように、いつまでも明けない秋の夜長を、恋する人と離れてただ一人寂しく寝るしかないのだろうか。(板野博行)
先に触れたように(閑話休題115)、山部赤人とともに「山柿」と併称される万葉のもう一人の“歌聖”、柿本人麻呂の歌に挑戦します。敢えて“挑戦”としたことにはわけがあります。
和歌には、上記の「あしびきの」のような“枕詞”という修辞法があります。一見、無意味な“飾りのことば”に思え、その漢詩化に当たって難題の一つと言えます。一つの試案を提示しました。ご批判を頂けるとありがたいです。
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<漢字原文および読み下し文>
秋独夜 秋の独夜 [下平声十二侵韻]
曳足山鳥尾, 足を曳(ヒキズ)る山の鳥の尾,
樹上下垂吟。 樹上に下垂(タレサゲ)て吟(ウタ)う。
長夜秋天候, 長夜 秋天(シュウテン)の候,
但恨莫同衾。 但だ恨(ウラ)むらくは同衾(ドウキン)莫(ナ)しを。
註]
曳足: “山”の枕詞、「あしびきの」に対応する。「足を引きずりながら登る」の意を込
めた。
山鳥:キジ科の鳥でオスの尾が非常に長い。そのため「長いこと」を表す時に使われる。
<簡体字>
秋独夜
曳足山鸟尾, Yè zú shān niǎo wěi
树上下垂吟。 shù shàng xiàchuí yín
长夜秋天候, Cháng yè qiūtiān hòu
但恨莫同衾。 dàn hèn mò tóngqīn
<現代語訳>
秋の独夜
足を引きずりながら登る険しい山に住む山鳥の尾、
彩り鮮やかな長い尾を樹上から垂らして、山鳥は美しい声で歌っている。
山鳥の尾のような秋の夜長を
褥(シトネ)を共にする人もなく、一人で寝るのがなんとも恨めしいことである。
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和歌には、枕詞(マクラコトバ)、序詞(ジョコトバ)、掛詞(カケコトバ)、等々、 “語呂合わせあるいは言葉遊戯”とも言える修辞法があります。それらを駆使することで、和歌に深みを与えているようで、和歌にとっては非常に重要な要素といえます。
和歌を漢詩化するに当たって、これらの修辞法を如何に表現するか、誠に難問といえます。まず枕詞について考えます。今回の歌について言えば、「あしびきの」が枕詞に相当します。
上記の先達の<訳>文中、枕詞に相当すると思える表現は見当たりません。つまり枕詞は、言語遊戯の技法のひとつであり、その語自体、和歌の“訳”を考える上では、意味がなく、したがって訳出しする必要がないということのようです。
では翻訳した漢詩に“枕詞に相当する表現”がなくてよいのであろうか。和歌のありようを率直に表現するには、必須であると考えられ、避けて通るわけにはいくまいと考えています。
作者・柿本人麻呂は、枕詞の創造、古い枕詞の新しい解釈等々、今に生きる枕詞の活用に、多大な貢献をされた歌人とされている。“あしひきの”については、元々は「足を引く」意味ではなかったが、「足引きの」→「足引きながら登る」→「山」と関連付けたのも、彼の功績である と。
今回は、“あしひきの”の翻訳に2字の“曳足”を当てたが、3字を要する際には“曳足登”と活かせるように思う。このように、 “導く語・山”との関連が、想像できる枕詞については、比較的に容易に漢詩にも生かせるように思われる。
実際に、枕詞とそれを導く言葉との関連性についての意味合いは、必ずしも一様ではなく、またその数1,000を超すとされる。百人一首の中でも数多いと思われ、これから漢詩化を進める上で、予想を超える難題と覚悟が要りそうだ。
今回取り上げた和歌で、今一つ大事な要素は、序詞(ジョコトバ)である。すなわち、「山鳥の長く垂れ下がった尾のように」は、「長々し夜」を導きだす序詞に当たります。ここで翻訳した漢詩・絶句で言えば、起句と承句が序詞に当たります。
一般に、絶句の漢詩で、起句と承句は、広い意味での、和歌で言う“序詞”に相当する部分であると考えられるのではないでしょうか。つまり、転句・結句の結論に導くために“情景の説明または提示”をする部分である と。
作者・柿本人麻呂は、大和時代後期(7世紀末ころ)に、天武・持統・文武天皇に仕えた宮廷歌人であるが、その生没の詳細は不明のようです。三十六歌仙の一人で、『万葉集』を代表する歌人とされており、450首以上の歌が残っている と。
『万葉集』に長歌20首、短歌75首が収められている と。かの有名な七五調の『いろは歌』“いろはにほへと ちりぬるを …… ”の作者ではないか とする説があるようです。
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