前回、中国映画「十面埋伏」(邦題”Lovers”)で出てきた李延年の漢詩“佳人の曲”に触れました。その中で、この詩は、李延年が自分の妹を漢の武帝にPRするために作ったものであると紹介しました。
一方、漢の武帝は「秋風の辞」という詩を作っていますが、その中に“佳人を懐って忘れることができない”というくだりの句があります。[ご参考までに、武帝の詩は、末尾に挙げました。]
武帝の詩に出てくる“佳人”とは、一体何者か?李夫人を指すのか?古来、議論の対象であったようです。これまでに挙げられている“佳人”の候補は、○后土(後述)で祀った地の女神、○一般的な意味の女神、○神仙のもの、○都長安の後宮の美女たち、○長安の賢臣たち、○武帝の皇后衛夫人等々。
“佳人の曲”中の“佳人”と同一漢字であることから、自然と李夫人を想像しますが、李夫人を挙げている例はありません。何故でしょうか?秋の夜長、菊の香りが漂い始めるこの季節、謎解きにはぴったりの時節と言えようか。以下、私見を述べます。
武帝は、初代皇帝劉邦の血を引く直系4代目の皇帝(在位:前141~前87年)にあたります。思い切った政治改革に取り組んだ独裁的な皇帝であり、今日の中国の形を作り上げた皇帝と言えるでしょう。
国の安寧を第一義として改革を進める中、各面で多くの優秀な人物が排出しています。軍中枢では、李広(りこう)、衛青(えいせい)、霍去病(かくきょへい)という優れた将軍を得て、北方匈奴の脅威を除くことができ、国内の安寧が達成されました。
そこで武帝は、泰山に登って天を祀ること(封禅:ほうぜん)を企画しました。封禅に先立って、汾陰の地(黄河の支流汾河のほとり)に祠を建てて、地の神を祀る行事(后土:こうど)を執り行っています。武帝44歳の時でした。
后土の祀りの後、随行員一同汾河に楼船を浮かべて、盛大な宴を催しています。その折に武帝が作った、と言われているのが「秋風の辞」です。少壮44歳で、“迫りくる老いをどうすればよかろう”と、嘆息しています。
古代中国では、天子は、‘巡狩(じゅんしゅ)’といって、諸国をめぐり民情を視察するという慣わしがあった と。汾陰の地を訪れるのもその‘巡狩’の一環で、武帝は、その頃から積極的に‘巡狩’を行うようになったようです。
“佳人”の話に戻ります。先に挙げたように、“佳人”の候補者として、李夫人は挙げられていません。
李夫人は、武帝に仕えるようになってから間もなく身籠って、男児を出生しています。しかし生来身体が弱く、出産後早々に亡くなりました。臨終に際しては、武帝自ら、見舞いに訪れています。通常、このようなことはありえないことのようですが。
李夫人が亡くなると、武帝は、彼女を皇后の礼によって葬ったとのことです。また霊魂を招く秘術を持つ方士がいると聞くと、李夫人の霊を呼ぶよう命じたとも言われています。
こと程左様に、李夫人に対する武帝の思い入れが非常に強かったことは明らかです。それにも拘わらず、李夫人が“佳人”の候補として挙がっていないことは腑に落ちません。
“佳人”を‘ある人’と仮定した時、詞中の句“佳人を懐いて忘るる能わず”という表現には、その‘ある人’はすでに‘亡くなった人’であろうことを想像させます。李夫人が存命中であれば、李夫人と採ることは状況にそぐわないようにも思える。残念ながら李夫人の亡くなった時期は不明です。
しかし、存命中であったとしても、武帝が巡狩中であったことを勘案すればどうであろう。当時、飛行機や自動車があった時代ではない。タカタカと馬車に揺られていく諸国巡狩です。長安から汾河の辺りまででも一週間や2週間の旅ではなく、月単位の長旅と思われます。
“少壮いくときぞ”とやや気が滅入る中、何か月も寵愛する李夫人と離れて旅の空にある。‘想い焦がれて’、強く本音が現れたとしても頷けるように思われます。むしろ武帝の‘人間性’が現れた句と見ておかしくないのではなかろうか。
“佳人”とは、李夫人であると筆者は読みたい。
漢詩の書物では、大体、詞の中の“佳人”は、后土で祀った‘地の(女)神’とされていると理解しています。末尾に挙げた詞の現代訳では一般的な女神となっています。
陳舜臣の歴史書では、特に“佳人”の候補を議論しているわけではないが、「衛皇后は春風にふさわしい佳人、…秋風に立つ佳人は…李夫人です。」という記載があります。[陳舜臣:『中国の歴史』4 平凡社 1981]。
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秋風辞 秋風の辞 漢の武帝
秋風起兮白雲飛 秋風 起こりて白雲飛び
草木黄落兮雁南帰 草木黄落(コウラク)して雁(カリ)南に帰る
蘭有秀兮菊有芳 蘭に秀(ハナ)有り 菊に芳(カオ)り有り
懐佳人兮不能忘 佳人を懐(オモ)いて忘るる能(アタ)わず
汎楼船兮済汾河 楼船を汎(ウカ)べて汾河(フンガ)を済(ワタ)り
横中流兮揚素波 中流に横たわりて素波(ソハ)を揚(ア)ぐ
簫鼓鳴兮発棹歌 簫鼓(ショウコ)鳴りて棹歌(トウカ)を発す
歓楽極兮哀情多 歓楽極(キワ)まりて哀情(アイジョウ)多し
少壮幾時兮奈老何 少壮 幾時(イクトキ)ぞ 老を奈何(イカン)せん
<現代訳>
秋風が立って白い雲が飛び、
草木の葉は黄ばみ枯れ落ちて、雁が南に渡っていく。
蘭は愛らしい花を咲かせ、菊は馥郁(フクイク)と香る、
それらの花にも似た美しい女神のことが思われ、忘れられない。
今、こうして屋形船を浮かべて汾河を渡り、
流れに横たわりつつ白波を揚げる。
笛や鼓が華やかに鳴り響き、舟歌が威勢よく沸き起こる。
しかしこの喜びが極まるところ、不意に物悲しい気分が広がるのだ。
若く元気の良いときはいつまで続くのか、迫りくる老いをどうすればよかろう。
NHK『新漢詩紀行』ガイド 石川忠久監修 (2010) から引用
一方、漢の武帝は「秋風の辞」という詩を作っていますが、その中に“佳人を懐って忘れることができない”というくだりの句があります。[ご参考までに、武帝の詩は、末尾に挙げました。]
武帝の詩に出てくる“佳人”とは、一体何者か?李夫人を指すのか?古来、議論の対象であったようです。これまでに挙げられている“佳人”の候補は、○后土(後述)で祀った地の女神、○一般的な意味の女神、○神仙のもの、○都長安の後宮の美女たち、○長安の賢臣たち、○武帝の皇后衛夫人等々。
“佳人の曲”中の“佳人”と同一漢字であることから、自然と李夫人を想像しますが、李夫人を挙げている例はありません。何故でしょうか?秋の夜長、菊の香りが漂い始めるこの季節、謎解きにはぴったりの時節と言えようか。以下、私見を述べます。
武帝は、初代皇帝劉邦の血を引く直系4代目の皇帝(在位:前141~前87年)にあたります。思い切った政治改革に取り組んだ独裁的な皇帝であり、今日の中国の形を作り上げた皇帝と言えるでしょう。
国の安寧を第一義として改革を進める中、各面で多くの優秀な人物が排出しています。軍中枢では、李広(りこう)、衛青(えいせい)、霍去病(かくきょへい)という優れた将軍を得て、北方匈奴の脅威を除くことができ、国内の安寧が達成されました。
そこで武帝は、泰山に登って天を祀ること(封禅:ほうぜん)を企画しました。封禅に先立って、汾陰の地(黄河の支流汾河のほとり)に祠を建てて、地の神を祀る行事(后土:こうど)を執り行っています。武帝44歳の時でした。
后土の祀りの後、随行員一同汾河に楼船を浮かべて、盛大な宴を催しています。その折に武帝が作った、と言われているのが「秋風の辞」です。少壮44歳で、“迫りくる老いをどうすればよかろう”と、嘆息しています。
古代中国では、天子は、‘巡狩(じゅんしゅ)’といって、諸国をめぐり民情を視察するという慣わしがあった と。汾陰の地を訪れるのもその‘巡狩’の一環で、武帝は、その頃から積極的に‘巡狩’を行うようになったようです。
“佳人”の話に戻ります。先に挙げたように、“佳人”の候補者として、李夫人は挙げられていません。
李夫人は、武帝に仕えるようになってから間もなく身籠って、男児を出生しています。しかし生来身体が弱く、出産後早々に亡くなりました。臨終に際しては、武帝自ら、見舞いに訪れています。通常、このようなことはありえないことのようですが。
李夫人が亡くなると、武帝は、彼女を皇后の礼によって葬ったとのことです。また霊魂を招く秘術を持つ方士がいると聞くと、李夫人の霊を呼ぶよう命じたとも言われています。
こと程左様に、李夫人に対する武帝の思い入れが非常に強かったことは明らかです。それにも拘わらず、李夫人が“佳人”の候補として挙がっていないことは腑に落ちません。
“佳人”を‘ある人’と仮定した時、詞中の句“佳人を懐いて忘るる能わず”という表現には、その‘ある人’はすでに‘亡くなった人’であろうことを想像させます。李夫人が存命中であれば、李夫人と採ることは状況にそぐわないようにも思える。残念ながら李夫人の亡くなった時期は不明です。
しかし、存命中であったとしても、武帝が巡狩中であったことを勘案すればどうであろう。当時、飛行機や自動車があった時代ではない。タカタカと馬車に揺られていく諸国巡狩です。長安から汾河の辺りまででも一週間や2週間の旅ではなく、月単位の長旅と思われます。
“少壮いくときぞ”とやや気が滅入る中、何か月も寵愛する李夫人と離れて旅の空にある。‘想い焦がれて’、強く本音が現れたとしても頷けるように思われます。むしろ武帝の‘人間性’が現れた句と見ておかしくないのではなかろうか。
“佳人”とは、李夫人であると筆者は読みたい。
漢詩の書物では、大体、詞の中の“佳人”は、后土で祀った‘地の(女)神’とされていると理解しています。末尾に挙げた詞の現代訳では一般的な女神となっています。
陳舜臣の歴史書では、特に“佳人”の候補を議論しているわけではないが、「衛皇后は春風にふさわしい佳人、…秋風に立つ佳人は…李夫人です。」という記載があります。[陳舜臣:『中国の歴史』4 平凡社 1981]。
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秋風辞 秋風の辞 漢の武帝
秋風起兮白雲飛 秋風 起こりて白雲飛び
草木黄落兮雁南帰 草木黄落(コウラク)して雁(カリ)南に帰る
蘭有秀兮菊有芳 蘭に秀(ハナ)有り 菊に芳(カオ)り有り
懐佳人兮不能忘 佳人を懐(オモ)いて忘るる能(アタ)わず
汎楼船兮済汾河 楼船を汎(ウカ)べて汾河(フンガ)を済(ワタ)り
横中流兮揚素波 中流に横たわりて素波(ソハ)を揚(ア)ぐ
簫鼓鳴兮発棹歌 簫鼓(ショウコ)鳴りて棹歌(トウカ)を発す
歓楽極兮哀情多 歓楽極(キワ)まりて哀情(アイジョウ)多し
少壮幾時兮奈老何 少壮 幾時(イクトキ)ぞ 老を奈何(イカン)せん
<現代訳>
秋風が立って白い雲が飛び、
草木の葉は黄ばみ枯れ落ちて、雁が南に渡っていく。
蘭は愛らしい花を咲かせ、菊は馥郁(フクイク)と香る、
それらの花にも似た美しい女神のことが思われ、忘れられない。
今、こうして屋形船を浮かべて汾河を渡り、
流れに横たわりつつ白波を揚げる。
笛や鼓が華やかに鳴り響き、舟歌が威勢よく沸き起こる。
しかしこの喜びが極まるところ、不意に物悲しい気分が広がるのだ。
若く元気の良いときはいつまで続くのか、迫りくる老いをどうすればよかろう。
NHK『新漢詩紀行』ガイド 石川忠久監修 (2010) から引用
計算してみるに、この武帝も54歳で亡くなっている様です。
関係ないけど、・・・この武帝より数百年遡る頃にいた孔子(70歳台没)は奇跡的なご長寿だったという事ですね。