漢の武帝について、コメントを頂いています。有難うございます。コメントへのお答えと合わせて、この機に武帝周辺についていま少し補足説明をさせて頂きます。
コメント氏は、武帝の亡くなった年齢を54歳と推算されておりますが、実際は70歳まで存命でした。先のブログで示した数字は、“在位”の年代でした。前141年、16歳で即位し、生前譲位はなく、前87年に没しています。在位54年ということになります。
16歳で即位したとは言え、当時口うるさいお婆さんの竇太后(とうたいこう)が君臨しており、さらに正妻である陳皇后の母親であり、おばさんの館陶(かんとう)公主も口うるさい 等々。若い武帝は、存分に政治を行う状況になく、満を持して雌伏する他はなかった。
竇太后は、前135年に亡くなっています。武帝22歳の時です。意気盛んな年齢と言えるでしょう。頭上の重しが取れて、思い切った政治改革に乗り出します。恐らく、高祖劉邦の直系という自負もあったのではないでしょうか。
人が時代をつくるのか、あるいは時代が人をつくるのか。武帝の時代、各方面で優秀な人材が輩出されています。軍関係では、先に挙げたように、李広、衛青、霍去病と続いています。
李広は、先祖が秦の時代に遡る軍事の名門の出で、文帝、景帝、武帝と3代にわたって働いた将軍です。対匈奴の戦で、多くの勲功を立て、匈奴を震え上がらせた将軍です。漢詩の中では、“飛将軍”として登場します。衛青など若い将軍の台頭により、やや不運な晩年ではあったようですが。
衛青は出自がややこしい。武帝には平陽公主というお姉さんがいて、彼女は、お婆さんやおばさん達とは異なり、武帝の味方でした。平陽公主は、陳皇后に子供がいないことから、後継者の誕生が待たれるとして、美人を集めて、武帝に好きな女性を選ばせました。
武帝が選んだ女性は、平陽公主の家にいた洗濯婆さんの娘・衛子夫で、後に衛皇后となる人です。当時衛子夫は合唱隊の一員でした。衛青は、衛子夫の弟にあたります。小さい頃は匈奴の近傍、漢・匈奴の雑居地帯に住んで、羊を飼う牧童でもありました。
成長して、平陽公主の家で馬周りの役をするようになりましたが、そこに至る間、まさにドランチックな展開があるのだが、ここでは長くなるので省略します。平たく言えば、元々衛子夫、衛青ともに奴隷の身分であったと言えます。
衛子夫が後宮に入ると、衛青も同行して、官職に着きます。ただ、衛青が小さい頃体験して得た匈奴に関する情報は、匈奴対策で頭いっぱいの武帝にとっては得難い、非常に有用なものであった。実際、匈奴との戦で生かされていくことになります。
衛子夫は三人姉妹の末っ子でした。直上の女子は、衛子夫の威光もあって、名のある霍(かく)家に嫁いでおり、そこで霍去病が誕生しています。
衛青、霍去病の活躍で、前119年に匈奴を掃討し、国の安寧を図ることができました。その5年後に、后土の祀りを執り行うことに繋がっていきます。先例、慣習を打破して、出自に拘ることなく、人材を登用した武帝の偉大さには感じ入ります。
これらの成功物語とは真逆に、生母・王太后(前120年)、李広(前119年)、館陶公主(前118年)、霍去病(前117年、24歳でした)と、縁のある人々が継いで世を去っています。「秋風の辞」の結句で、“…迫りくる老いをどうすればよかろう”と、自問することに繋がっているのではないでしょうか。
注)歴史上の記述は、主に次の著書に依っています。
陳舜臣 著『小説 十八史略』(毎日新聞社刊、1979);『中国の歴史』(平凡社刊、1981)
コメント氏は、武帝の亡くなった年齢を54歳と推算されておりますが、実際は70歳まで存命でした。先のブログで示した数字は、“在位”の年代でした。前141年、16歳で即位し、生前譲位はなく、前87年に没しています。在位54年ということになります。
16歳で即位したとは言え、当時口うるさいお婆さんの竇太后(とうたいこう)が君臨しており、さらに正妻である陳皇后の母親であり、おばさんの館陶(かんとう)公主も口うるさい 等々。若い武帝は、存分に政治を行う状況になく、満を持して雌伏する他はなかった。
竇太后は、前135年に亡くなっています。武帝22歳の時です。意気盛んな年齢と言えるでしょう。頭上の重しが取れて、思い切った政治改革に乗り出します。恐らく、高祖劉邦の直系という自負もあったのではないでしょうか。
人が時代をつくるのか、あるいは時代が人をつくるのか。武帝の時代、各方面で優秀な人材が輩出されています。軍関係では、先に挙げたように、李広、衛青、霍去病と続いています。
李広は、先祖が秦の時代に遡る軍事の名門の出で、文帝、景帝、武帝と3代にわたって働いた将軍です。対匈奴の戦で、多くの勲功を立て、匈奴を震え上がらせた将軍です。漢詩の中では、“飛将軍”として登場します。衛青など若い将軍の台頭により、やや不運な晩年ではあったようですが。
衛青は出自がややこしい。武帝には平陽公主というお姉さんがいて、彼女は、お婆さんやおばさん達とは異なり、武帝の味方でした。平陽公主は、陳皇后に子供がいないことから、後継者の誕生が待たれるとして、美人を集めて、武帝に好きな女性を選ばせました。
武帝が選んだ女性は、平陽公主の家にいた洗濯婆さんの娘・衛子夫で、後に衛皇后となる人です。当時衛子夫は合唱隊の一員でした。衛青は、衛子夫の弟にあたります。小さい頃は匈奴の近傍、漢・匈奴の雑居地帯に住んで、羊を飼う牧童でもありました。
成長して、平陽公主の家で馬周りの役をするようになりましたが、そこに至る間、まさにドランチックな展開があるのだが、ここでは長くなるので省略します。平たく言えば、元々衛子夫、衛青ともに奴隷の身分であったと言えます。
衛子夫が後宮に入ると、衛青も同行して、官職に着きます。ただ、衛青が小さい頃体験して得た匈奴に関する情報は、匈奴対策で頭いっぱいの武帝にとっては得難い、非常に有用なものであった。実際、匈奴との戦で生かされていくことになります。
衛子夫は三人姉妹の末っ子でした。直上の女子は、衛子夫の威光もあって、名のある霍(かく)家に嫁いでおり、そこで霍去病が誕生しています。
衛青、霍去病の活躍で、前119年に匈奴を掃討し、国の安寧を図ることができました。その5年後に、后土の祀りを執り行うことに繋がっていきます。先例、慣習を打破して、出自に拘ることなく、人材を登用した武帝の偉大さには感じ入ります。
これらの成功物語とは真逆に、生母・王太后(前120年)、李広(前119年)、館陶公主(前118年)、霍去病(前117年、24歳でした)と、縁のある人々が継いで世を去っています。「秋風の辞」の結句で、“…迫りくる老いをどうすればよかろう”と、自問することに繋がっているのではないでしょうか。
注)歴史上の記述は、主に次の著書に依っています。
陳舜臣 著『小説 十八史略』(毎日新聞社刊、1979);『中国の歴史』(平凡社刊、1981)
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