この二句:
何を以ってか憂ひを解かん、惟だ杜康有るのみ
魏王曹操の詩「短歌行」(下記)の中の二句です。“憂いを払ってくれるのは、お酒しかない”と詠っています。但しこの詩は、全体として若手の優秀な人材を求めるという趣旨の詩の様ですが。
xxxxxxxxx
短歌行
対酒当歌、 酒に対して当(マサ)に歌わん 、
人生幾何。 人生 幾何(イクバク)ぞ 。
譬如朝露、 譬(タト)うるに朝露(チョウロ)の如く、
去日苦多。 去りし日は苦(ハナハ)だ多し。
慨当以慷、 慨(ガイ)して当に以って慷(コウ)すべし、
憂思難忘。 憂思(ユウシ) 忘れ難し。
何以解憂、 何を以ってか憂いを解かん、
惟有杜康。 惟(タ)だ杜康(トコウ)有るのみ。
……………(省略)………….
山不厭高、 山は高きを厭(イト)はず、
海不厭深。 海は深きを厭はず。
周公吐哺、 周公(シュウコウ)は哺(ホ)を吐(ハ)きて 、
天下歸心。 天下 心を帰したり。
註]
慨当以慷:“慷慨”を分解し、“当に以て”を加えて、四字熟語のかたちにした表現。「慷慨」は、意気が盛んなこと
憂思:憂いの気持ち
杜康:酒を発明したと伝えられている伝説上の人。転じてここでは酒のこと
周公:周公旦;前12世紀末、殷を滅ぼし周を興した武王の弟、仁政を説き、周建国・発展に多大な貢献をした
哺:口中に含んだ食べ物; 「哺を吐く」は、食事中でも口中の食べ物を出して、待ちかねていたように人を迎えること、人材を求めること
帰心:心服して、帰順する
<現代語訳>
お酒を飲み、大いに歌い楽しく行こう、
この人生は 幾何もなく短いのだ。
例えて言えば、朝露のようなものだ、
それでもすでに多くの日々は過ぎ去ってしまっている。
まさに意気を盛んにしようとしても、
憂いの気持ちは消しさることはできない。
どうすればこの憂いを払うくことができようか、
お酒を頂くに限る。
…………(省略)……..
山は高いことを忌み嫌うことはなく、高ければなおよく、
海は深いことを忌み嫌うことはなく、深ければなおよい。
(優れた君主は、多種多様な人材を受け入れる大きな度量がある)
周公旦は、食事中でも来客があれば直ちに口中の物を吐き出して応対し、
天下の人々をして心服させたのである。
xxxxxxxxx
まず作者曹操(155~220)について触れます。
曹操は、後漢(25~220)末、朝廷が腐敗した乱世時に活躍した武人・政治家・文人・兵法家です。豫州沛国譙県(現安徽省亳州市)の出身。父曹嵩(ソウスウ)は、夏侯氏であったが、時の宦官最高位の大長秋・曹謄(ソウトウ)の養子となり曹氏を継いだ。
曹操は若くして機知と権謀に富んでいたが、放蕩で必ずしも世評はよろしくなかった由。大尉の橋玄(キョウゲン)は、「世は乱れようとしている、天下を安んずるのは君である」と、曹操を高く評価していた。
橋玄は、当時有名であった人物鑑定家の許劭(キョ ショウ)に紹介、人物鑑定をしてもらった。結果「治世の能臣、乱世の奸雄(平和な世では有能な臣下、乱世ではあくどい英雄)」と評され、曹操は大いに喜んだ と。後に曹操は、橋玄を祀り、その恩義に報いています。
184年、太平道の教祖張角が指導する農民反乱“黄巾の乱”が起こる。曹操は、2度にわたり参戦し、青洲で黄巾軍の兵30万人を降伏させた(192)。降伏した兵の中から精鋭を選んで自軍に編入して「青洲兵」を組織して、以後勇躍の礎を築いている。
200年、最大の敵袁紹(エンショウ)を官渡で下した(官渡の戦い)。以後諸勢力を降していき、中原から華北を統一した。曹操の勢力は圧倒的となり、敵対勢力として残るは荊州、江東、益州など南の長江流域の勢力となってきました。
長江流域では、2大勢力が出き上がっていた。一つは、劉備が軍師の諸葛亮(孔明)、武勇の関羽・趙飛・趙雲を擁して、蜀(現四川省成都市)に拠っています。一方、孫権は、孫堅(父)・孫策(兄)に続く三代にわたる経営で長江下流域を治めて呉(現江蘇省蘇州)に拠っています。
曹操は、全国統一を目指して、数十万と言われる大軍を荊州に向け南下し、江陵から長江を下って烏林(赤壁)に陣した。一方、呉(孫権)・蜀(劉備)は、諸葛亮らの献策により連合軍を形成、周瑜を大将として向え討つことになりました(208、赤壁の戦い)。
この戦いは、呉・蜀連合軍の“火攻めの策”に屈して、曹操軍が敗走する結果となりました。その敗因には、水上戦の不慣れ、陣地内での疫病の蔓延、長江流域の気象情報の不足等々挙げられていますが。
明代に書かれた歴史小説「三国志演義」では、曹操は、“赤壁の戦い”に出陣中、上記「短歌行」を即興的に詠った とされているようです。吉川英治著「三国志」(講談社 吉川英治文庫)には、次のような件があります。
赤壁の戦いに臨んで曹操は、「船の舳先に立って、江の水に三杯の酒をそそぎ、水神を祭って、剣を撫しながら、…..、ここ江南に臨んで強大の呉を粉砕せんとし、感慨尽きないものがある。いま一詩を賦さん。汝らみな、これに和せよ」と言って、即興で詩を賦し、皆が和した と。
「短歌行」は、32の四言句から成る楽府題の長編詩です。全体は同じ脚韻の4句ごとに八段落(解)に分かれています。上記には最初の2段落と、最後の1段落を示しました。省略部分は、“優れた人材は一向に手に入らず、憂いに耐えない。若い優れた人材よ来たれ。”という趣旨の内容です。
最後の段落で、“優れた人材はいくら居ても多すぎることはない。周代初に周公旦は、何事にも優先して人材を求めることに意を用いた。その結果、周は強大な国に成長できたのだ。自分も今優れた人材を求めているのだ” との趣旨で結んでいます。
詩の作成時期については、上記の様に、その内容を読んでいくと、戦に臨んで詠ったと考えるにはちょっと違和感があります。陳寿の正史「三国志」には記載がないようで、諸書を紐解いてみると、“赤壁の戦い”の後、国の再建に奔走していた頃の作であろう と提起されています。
話題を本稿の「酒に対す」に戻ります。兼がね“お酒の起源”について興味があり、「短歌行」の第2段落最後の句中“杜康”が現れていることから、この機会に“お酒の起源”について触れることにしました。
“杜康”は、文献上夏王朝(BC2,000頃)五代目の王とされている人物で、お酒を発明した人とされています。日本で酒造りの親方は「杜氏」と呼ばれているようですが、“杜康”に由来する名称であると言われています。
河南省舞陽県に“賈湖(カコ)遺跡”と言われる遺跡がある。80年代に発掘された新石器時代早期段階(BC7,000ころ)の遺跡とされています。そこで出土した陶器のかけらについて米国の考古学者マクガバン教授は化学分析し、アルコールの残痕を発見しています。
さらに抽出した物質を分析した結果、糖蜜、サンザシ、ブドウ、米などの醸造原材料の成分が含まれていることを明らかにしました。すなわち賈湖人は、“杜康”よりはるか昔、BC7,000年の頃、醸造技術を有していて、中国は世界で最も早く醸造していた国であるということです。
ただ、人類がいつお酒の味を知り、醸造する技術を開発したかは想像の域を出ません。酒の発見、あるいは人が最初に酒の味を知ったことについて言えば、頷ける説(?)が無いわけではありません。興味を引く話に、蜂蜜酒があります。
農耕が始まる前、1万4千年前には蜂蜜採集は行われていたようです。狩人がクマなどに荒らされて破損したハチの巣に溜まっている雨水を飲む機会はあったでしょう。これは偶然に又は自然に遭遇し得る状況と言えるでしょう。そのときこそ人がお酒の味を経験した時ではないでしょうか。
・蜂蜜は人の大事な栄養源であったようであり、・蜂の巣はウドウ糖を蓄えた自然の保存倉庫であり、・蜂蜜を水で2、3倍に薄めて放置するだけでアルコール発酵が進む こと。これらを勘案すれば、酒の発見については“蜂蜜酒説(?)”は説得力のある考えであるように思える。
お酒の発見から、さらに醸造技術の開発に至る過程は、論を展開できる資料は見当たりません。興味は尽きないが、いずれは考古資料の発見がなされる時が来るに違いない。
何を以ってか憂ひを解かん、惟だ杜康有るのみ
魏王曹操の詩「短歌行」(下記)の中の二句です。“憂いを払ってくれるのは、お酒しかない”と詠っています。但しこの詩は、全体として若手の優秀な人材を求めるという趣旨の詩の様ですが。
xxxxxxxxx
短歌行
対酒当歌、 酒に対して当(マサ)に歌わん 、
人生幾何。 人生 幾何(イクバク)ぞ 。
譬如朝露、 譬(タト)うるに朝露(チョウロ)の如く、
去日苦多。 去りし日は苦(ハナハ)だ多し。
慨当以慷、 慨(ガイ)して当に以って慷(コウ)すべし、
憂思難忘。 憂思(ユウシ) 忘れ難し。
何以解憂、 何を以ってか憂いを解かん、
惟有杜康。 惟(タ)だ杜康(トコウ)有るのみ。
……………(省略)………….
山不厭高、 山は高きを厭(イト)はず、
海不厭深。 海は深きを厭はず。
周公吐哺、 周公(シュウコウ)は哺(ホ)を吐(ハ)きて 、
天下歸心。 天下 心を帰したり。
註]
慨当以慷:“慷慨”を分解し、“当に以て”を加えて、四字熟語のかたちにした表現。「慷慨」は、意気が盛んなこと
憂思:憂いの気持ち
杜康:酒を発明したと伝えられている伝説上の人。転じてここでは酒のこと
周公:周公旦;前12世紀末、殷を滅ぼし周を興した武王の弟、仁政を説き、周建国・発展に多大な貢献をした
哺:口中に含んだ食べ物; 「哺を吐く」は、食事中でも口中の食べ物を出して、待ちかねていたように人を迎えること、人材を求めること
帰心:心服して、帰順する
<現代語訳>
お酒を飲み、大いに歌い楽しく行こう、
この人生は 幾何もなく短いのだ。
例えて言えば、朝露のようなものだ、
それでもすでに多くの日々は過ぎ去ってしまっている。
まさに意気を盛んにしようとしても、
憂いの気持ちは消しさることはできない。
どうすればこの憂いを払うくことができようか、
お酒を頂くに限る。
…………(省略)……..
山は高いことを忌み嫌うことはなく、高ければなおよく、
海は深いことを忌み嫌うことはなく、深ければなおよい。
(優れた君主は、多種多様な人材を受け入れる大きな度量がある)
周公旦は、食事中でも来客があれば直ちに口中の物を吐き出して応対し、
天下の人々をして心服させたのである。
xxxxxxxxx
まず作者曹操(155~220)について触れます。
曹操は、後漢(25~220)末、朝廷が腐敗した乱世時に活躍した武人・政治家・文人・兵法家です。豫州沛国譙県(現安徽省亳州市)の出身。父曹嵩(ソウスウ)は、夏侯氏であったが、時の宦官最高位の大長秋・曹謄(ソウトウ)の養子となり曹氏を継いだ。
曹操は若くして機知と権謀に富んでいたが、放蕩で必ずしも世評はよろしくなかった由。大尉の橋玄(キョウゲン)は、「世は乱れようとしている、天下を安んずるのは君である」と、曹操を高く評価していた。
橋玄は、当時有名であった人物鑑定家の許劭(キョ ショウ)に紹介、人物鑑定をしてもらった。結果「治世の能臣、乱世の奸雄(平和な世では有能な臣下、乱世ではあくどい英雄)」と評され、曹操は大いに喜んだ と。後に曹操は、橋玄を祀り、その恩義に報いています。
184年、太平道の教祖張角が指導する農民反乱“黄巾の乱”が起こる。曹操は、2度にわたり参戦し、青洲で黄巾軍の兵30万人を降伏させた(192)。降伏した兵の中から精鋭を選んで自軍に編入して「青洲兵」を組織して、以後勇躍の礎を築いている。
200年、最大の敵袁紹(エンショウ)を官渡で下した(官渡の戦い)。以後諸勢力を降していき、中原から華北を統一した。曹操の勢力は圧倒的となり、敵対勢力として残るは荊州、江東、益州など南の長江流域の勢力となってきました。
長江流域では、2大勢力が出き上がっていた。一つは、劉備が軍師の諸葛亮(孔明)、武勇の関羽・趙飛・趙雲を擁して、蜀(現四川省成都市)に拠っています。一方、孫権は、孫堅(父)・孫策(兄)に続く三代にわたる経営で長江下流域を治めて呉(現江蘇省蘇州)に拠っています。
曹操は、全国統一を目指して、数十万と言われる大軍を荊州に向け南下し、江陵から長江を下って烏林(赤壁)に陣した。一方、呉(孫権)・蜀(劉備)は、諸葛亮らの献策により連合軍を形成、周瑜を大将として向え討つことになりました(208、赤壁の戦い)。
この戦いは、呉・蜀連合軍の“火攻めの策”に屈して、曹操軍が敗走する結果となりました。その敗因には、水上戦の不慣れ、陣地内での疫病の蔓延、長江流域の気象情報の不足等々挙げられていますが。
明代に書かれた歴史小説「三国志演義」では、曹操は、“赤壁の戦い”に出陣中、上記「短歌行」を即興的に詠った とされているようです。吉川英治著「三国志」(講談社 吉川英治文庫)には、次のような件があります。
赤壁の戦いに臨んで曹操は、「船の舳先に立って、江の水に三杯の酒をそそぎ、水神を祭って、剣を撫しながら、…..、ここ江南に臨んで強大の呉を粉砕せんとし、感慨尽きないものがある。いま一詩を賦さん。汝らみな、これに和せよ」と言って、即興で詩を賦し、皆が和した と。
「短歌行」は、32の四言句から成る楽府題の長編詩です。全体は同じ脚韻の4句ごとに八段落(解)に分かれています。上記には最初の2段落と、最後の1段落を示しました。省略部分は、“優れた人材は一向に手に入らず、憂いに耐えない。若い優れた人材よ来たれ。”という趣旨の内容です。
最後の段落で、“優れた人材はいくら居ても多すぎることはない。周代初に周公旦は、何事にも優先して人材を求めることに意を用いた。その結果、周は強大な国に成長できたのだ。自分も今優れた人材を求めているのだ” との趣旨で結んでいます。
詩の作成時期については、上記の様に、その内容を読んでいくと、戦に臨んで詠ったと考えるにはちょっと違和感があります。陳寿の正史「三国志」には記載がないようで、諸書を紐解いてみると、“赤壁の戦い”の後、国の再建に奔走していた頃の作であろう と提起されています。
話題を本稿の「酒に対す」に戻ります。兼がね“お酒の起源”について興味があり、「短歌行」の第2段落最後の句中“杜康”が現れていることから、この機会に“お酒の起源”について触れることにしました。
“杜康”は、文献上夏王朝(BC2,000頃)五代目の王とされている人物で、お酒を発明した人とされています。日本で酒造りの親方は「杜氏」と呼ばれているようですが、“杜康”に由来する名称であると言われています。
河南省舞陽県に“賈湖(カコ)遺跡”と言われる遺跡がある。80年代に発掘された新石器時代早期段階(BC7,000ころ)の遺跡とされています。そこで出土した陶器のかけらについて米国の考古学者マクガバン教授は化学分析し、アルコールの残痕を発見しています。
さらに抽出した物質を分析した結果、糖蜜、サンザシ、ブドウ、米などの醸造原材料の成分が含まれていることを明らかにしました。すなわち賈湖人は、“杜康”よりはるか昔、BC7,000年の頃、醸造技術を有していて、中国は世界で最も早く醸造していた国であるということです。
ただ、人類がいつお酒の味を知り、醸造する技術を開発したかは想像の域を出ません。酒の発見、あるいは人が最初に酒の味を知ったことについて言えば、頷ける説(?)が無いわけではありません。興味を引く話に、蜂蜜酒があります。
農耕が始まる前、1万4千年前には蜂蜜採集は行われていたようです。狩人がクマなどに荒らされて破損したハチの巣に溜まっている雨水を飲む機会はあったでしょう。これは偶然に又は自然に遭遇し得る状況と言えるでしょう。そのときこそ人がお酒の味を経験した時ではないでしょうか。
・蜂蜜は人の大事な栄養源であったようであり、・蜂の巣はウドウ糖を蓄えた自然の保存倉庫であり、・蜂蜜を水で2、3倍に薄めて放置するだけでアルコール発酵が進む こと。これらを勘案すれば、酒の発見については“蜂蜜酒説(?)”は説得力のある考えであるように思える。
お酒の発見から、さらに醸造技術の開発に至る過程は、論を展開できる資料は見当たりません。興味は尽きないが、いずれは考古資料の発見がなされる時が来るに違いない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます