この歌(下記)は、源実朝22歳(1213)が編んだ家集『金槐和歌集』(定家所伝)の最後を飾る歌である。後鳥羽上皇より“御書”を賜り、強い衝動を覚え、3首続けて詠まれた内のその最後の一首でもある。“御書”を頂いた‘時はいつか?’、またその内容は ‘褒美、勅諚または叱責か?’など不明である。
したがって、この歌の趣旨も‘喜び・お礼の表現’かまたは‘弁明’か?不明である。当時、実朝は、非常に複雑な立場、状況に置かれていたと推測される。いずれにせよ、歌の心意は、上皇の度量の広さに接して、絶対恭順の意を表明することであったように思われ、漢詩化は、その趣旨で進めた。
太上天皇の御書 下し預りし時の歌
山は裂け 海は浅(ア)せなむ 世なりとも
君に二心 わがあらめやも (鎌倉第三代将軍 源実朝 『金槐和歌集』・雑・663)
(大意) 上皇より親書を受け取りし時の歌
たとえ山が裂け 海が干上がる世となっても 私が 上皇に対して二心を持つような
ことなど なんでありましょうか。
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<漢詩>
收到上皇親書 上皇親書を收到(オサ)める [下平声十二侵韻]
各各天涯賜親信, 各各(オノオノ)天涯にありて 親信を賜(タマワ)る,
恢恢皇度潤衣衿。 恢恢(カイカイ)たる皇度(コウド) 衣衿(イキン)を潤(ウルオ)す。
縱岳裂開海乾枯, 縱(タト)い岳(ヤマ)裂開(レッカイ)し 海 乾枯(カンコ)せしも,
也茲宣誓無二心。 茲(ココ)に二心の無きを宣誓(センセイ)する也(ナリ)。
註] 〇各各:おのおの、それぞれ; 〇天涯:空の果て、遠隔の地の形容;
○親信:親書、此処では、“信”は親書並びに信頼を意味する; 〇恢恢:すべてを
包み込むほど広大なさま; 〇皇度:皇帝の度量; 〇衿:襟;
〇縱……也……:たとえ……であろうとも……; ○岳:高いやま、山岳;
〇裂開:裂ける; 〇乾枯:(川など)干上がる; 〇二心:裏切りのこころ。
<現代語訳>
上皇より親書を頂く
おのおの遥かに遠く離れている中で 上皇から親書を頂いた、
広々と包み込む上皇の御心に接し 止めどない涙で襟を濡らす。
たとい高い山が裂け、海が干上がってしまう事態が起ころうとも、
わたしに二心のないことを此処でお誓いするのである。
<簡体字およびピンイン>
收到上皇亲书 Shōu dào shànghuáng qīn shū
各各天涯赐亲信, Gè gè tiānyá cì qīn xìn,
恢恢皇度润衣衿。 huī huī huáng dù rùn yī jīn.
纵岳裂开海干枯, Zòng yuè liè kāi hǎi gān kū,
也兹宣誓无二心。 yě zī xuānshì wú èr xīn.
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掲題の歌が詠まれた頃の実朝を取り巻く状況を点描してみます。京都には権威を象徴する後鳥羽上皇、鎌倉には権力を強め、固めつつある執権・北条義時、および将軍職の実朝と、三者が“政(マツリゴト)”を巡って三つ巴の知恵(力)比べを展開し、緊張状態にある。さりながら、世の政治力学の趨勢は、徐々に京都から鎌倉に移りつつある時代である。
実朝は、征夷大将軍に就いて10年経た22歳、そろそろ目覚めて、父・頼朝に倣い自ら“政”に関わりたいが、義時に阻まれて儘ならない。そこで上皇の力を借りようとの意図を持つ。上皇に対しては、致誠、畏敬の念を抱いており、また自らは第56代清和天皇に繫がる、貴種であるという誇りも胸に秘めている筈である。
上皇は、鎌倉が徐々に“政”の範囲を広げ、力を強めていくことに心穏やかでない思いに駆られている。しかし鎌倉との交流を密にして、融和を図り、取り込もおと努めており、その一方策として、実朝を介する交流を重要視している。
義時は、頼朝が開いた体制を承け継ぎ、執権としてさらに強固なものとするべく奮闘している。“政”に関しては、実朝ばかりか、上皇の介在も許さず、既得権益を死守するとともに、力の範囲を一層広げつゝある。
以上の状況は、1213年前後の状況である。『金槐和歌集』はこの頃纏められており、その奥書には、建歴3年(1213)12月とある という。上掲の歌は、同集の最後に置かれた3首のうちの第3首目で、他の2首の内容のあらましは、以下の通りである。
第1首目は、上皇の勅を尊んでそれに従おうと思うが、そのことを周りに公言することは憚られる と。また第2首目は、自分は東国で将軍としてお守り致しましょうと、上皇への恭順の想いを述べている。歌の詞書にある上皇の“御書”の内容は不明であるが、実朝の想いに沿うものであったことが窺われる。
歌人・源実朝の誕生 (1)
正岡子規は、「実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇(モノズキ)連中や 死に歌よみの公家たちととても同日には論じがたく、人間としてりっぱな見識ある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。」(『歌よみに与うる書』)と高く評価している。
一方、「当代(実朝)は歌(ウタ)鞠(マリ)をもって業となす 武芸 廃(スタ)れるに似たり」(『吾妻鑑』)とし、実朝は「軟弱凡庸の人」と評されていたようである。しかし子規は、「古来、(実朝を)凡庸の人と評し来たりしは必ず誤りなるべく、……」(子規・同書)と断じている。
確かに、研究が進み、近年の諸書では、実朝は、将軍職にあることを自覚し、“政”にも意欲をもってしっかりと対処していたことが明らかにされており、その評価は変わってきている。それ故にこそ、上記の如く、三つ巴の緊張状態が生じていると見るべきでしょう。
ただ驚かされるのは、若輩(?失礼!)で短期間のうちに、人の心を打つ歌を斯くも数多く作られた実朝の“才”についてである。 “天稟(テンピン)”と言えばそれまでだが、向後、実朝作品を読み、その漢詩化に挑戦しつゝ、「歌人・源実朝の誕生」を追っていきたい。